第5話 離婚届にサインして
「トシアキ、ちょっといい?」
日曜日の午後。
夫はソファに寝転がって、テレビを見ていた。
「んー?」
「サインしてほしい書類があるの」
「書類?」
夫は画面から目を離さずに答えた。
「何の?」
「これ」
私はテーブルの上に、一枚の紙を置いた。
夫は面倒くさそうに上半身を起こした。
「だから、何の書類だよ」
「離婚届」
「……」
沈黙。
テレビから、芸人たちの笑い声が聞こえていた。
夫は紙を見た。
私を見た。
もう一度、紙を見た。
「……は?」
予想どおりの反応だった。
「離婚届。サインしてほしいの」
「いやいやいや」
夫は笑い出した。
「何言ってんだよ、お前」
「離婚したいの」
「……いや、だから」
笑顔が、少しずつ消えていく。
「何で?」
心底、理解できないという顔だった。
私は静かに答えた。
「あなたが不倫したから」
夫はしばらく口を開けたままだった。
そして。
「……え?」
もう一度、同じ声を出した。
「いや、ちょっと待てよ。カオリの件は終わっただろ?」
「終わってないわよ」
「終わったって! 俺、金払ったじゃん!」
「カオリさんには五十万円しか払ってないでしょう」
「百五十万だよ!」
「うち百万円は、あなた自身の口座にあるんでしょう?」
「それはお前のために用意した金だろうが!」
「私はまだ受け取ってないわ」
「だから!」
夫は立ち上がった。
「何なんだよ、お前! 金が欲しいならそう言えよ!」
私は首を横に振った。
「そういう話じゃないの」
「じゃあ何だよ!」
「あなたと、もう夫婦でいたくないの」
夫の顔が引きつった。
どうやら、その言葉だけは理解できたらしい。
「……おい、ちょっと待て」
夫は私の正面に立った。
「ノゾミ、お前、何か勘違いしてないか?」
「何を?」
「俺はお前を選んだんだぞ?」
私は夫を見上げた。
「……それが?」
「それがって! カオリとは別れたし、金も払った。俺は家庭を守ったんだよ!」
「そう」
「そう、じゃないだろ!」
夫は苛立ったように頭をかいた。
「普通だったらさ、不倫相手に本気になって、嫁と別れる男だっているんだぞ? 俺はそうしなかった。お前を大事にしたんだよ!」
私は思わず目を伏せた。
笑ってしまいそうだったから。
(……ああ、本当に)
この人は。
最後まで、そういう人なんだ。
自分が不倫相手ではなく妻を選んだことを、妻に対する最大の愛情表現だと思っている。
私には、選ばれることを感謝する義務があるらしい。
「トシアキ」
「何だよ」
「一つ、教えてほしいの」
「……何?」
「あなたが不倫したのは、私のせい?」
夫は目を泳がせた。
「いや、そういうわけじゃ……」
「あなたがカオリさんを妊娠させたのは、私のせい?」
「だから、それは……」
「あなたがカオリさんに中絶を求めたのは?」
「……」
「その説得を私に頼んだのは?」
夫は黙った。
私は続けた。
「最初の日、あなたは言ったわよね。『お互いに反省するところがある』って」
「……ああ」
「じゃあ、私が反省すべきことって、何?」
トシアキは口を開いた。
閉じた。
また開いた。
「……最近、お前、俺に冷たかっただろ」
私は頷いた。
「そうね。そう感じたなら、そうだったのかもしれない」
「だったら!」
「でも、それなら私に話してほしかったわ」
夫の言葉を遮る。
「不満があるなら、話し合えばよかったでしょう?」
「……」
「あなたが何も言わないまま不倫したことを、私の責任にはできないと思う」
夫の顔が赤くなった。
「お前、ずいぶん偉そうになったな」
「そう?」
「誰のおかげで今まで生活できたと思ってるんだよ!」
私は首を傾げた。
「お互いに働いて、一緒に生活してきたんじゃないの?」
「……っ!」
「少なくとも、私はそう思っていたわ」
夫は言葉を失った。
私は引き出しから、もう一つの封筒を取り出した。
「それから、これ」
中から数枚の紙を取り出す。
トシアキとカオリさんのメッセージ。
金銭のやり取りに関する記録。
夫自身が作成した、百五十万円の一覧表。
それらを、テーブルに並べた。
「……何だ、これ」
夫の声が変わった。
「あなたとカオリさんのやり取りよ」
「何でお前が持ってるんだよ!」
「カオリさんから提供してもらったの」
夫は目を見開いた。
「……は?」
「本人の了解を得て、必要なものを保管してあるわ」
「お前……」
夫の顔色が変わっていく。
「カオリと繋がってたのか?」
「ええ」
「いつからだよ!」
「あなたが私に、彼女を説得してほしいって頼んだ次の日から」
夫は凍りついた。
「……おい、待てよ」
「何?」
「お前、カオリと組んで、俺を騙してたのか?」
私は少し考えた。
「騙してはいないわよ」
「嘘つけ!」
「だって、私は一度もあなたを許すと言ってないもの」
夫は口を開けたまま固まった。
「あなたが勝手に許されたと思っていただけでしょう?」
「……っ!」
「私、言ったわよね。カオリさん本人の意思を確認しなさいって」
「ああ……」
「あなたはそれを、私がカオリさんを説得してくれるって意味に受け取った」
「……」
「私が冷静だったから、納得してくれたと思った」
「……」
「私が笑ったから、元通りになったと思った」
夫は唇を噛んだ。
私は静かに言った。
「全部、あなたが勝手に決めたことよ」
「……ふざけるな!」
トシアキがテーブルを叩いた。
紙が跳ねた。
「じゃあ何か! お前は最初から俺を騙すつもりだったのか!」
「違うわ」
私は首を横に振った。
「最初は、ちゃんと話を聞こうと思ってた」
本当だった。
あの日。
夫が妊娠のことを打ち明けたとき、私はまだ、どこかで期待していた。
夫が過ちを認め、私に謝罪し、自分のしたことに向き合ってくれるのではないかと。
あんなことがあったけれど、それでも七年間を一緒に生きた人なのだからと。
「でもね、トシアキ」
私は夫の目を見た。
「あなた、一度も私に謝らなかったのよ」
「……え?」
「『悪いとは思ってる』とは言ったわ。でも、そのあとに必ず、私にも責任があるとか、夫婦なんだから流せとか、そういうことを言ったでしょう?」
「……」
「カオリさんにお金を払ったあとも、『俺は誠実だ』『俺は家庭を守った』って、ずっと自分を褒めてた」
私は、ゆっくり息を吸った。
「私がどんな気持ちだったか、一度でも聞いた?」
夫は答えなかった。
「悲しかったか、苦しかったか、これからどうしたいか。あなた、私に一度でも聞いた?」
沈黙。
リビングには、テレビの音だけが響いていた。
「……ノゾミ」
ようやく、夫が口を開いた。
「俺は、お前を信頼してたんだぞ」
私は頷いた。
「そうね」
「なのに……裏切ったのかよ」
その言葉を聞いた瞬間。
私は、初めて声を上げて笑った。
「……ふふ」
「何がおかしい!」
「ごめんなさい」
口元を押さえる。
「でも、あまりにも面白くて」
夫は呆然と私を見ていた。
私は笑うのをやめた。
そして、ゆっくり言った。
「あなたが信頼していたのは、私じゃないわ」
「……何?」
「何をしても許してくれて、何でも片づけてくれて、自分を否定しない。あなたにとって都合のいい『妻』よ」
夫の顔から表情が消えた。
「私は、そんな人間じゃないの」
私は離婚届を指さした。
「サインして」
夫はしばらく、その紙を睨んでいた。
指を小さく震わせながら。
そして、低い声で答えた。
「……嫌だ」
予想どおりだった。
「俺は離婚しない」
「そう」
「だいたい、お前、何様だよ。勝手に離婚なんか決めやがって!」
「私の人生だから」
夫が顔を上げる。
「私が決めたの」
「俺は認めないぞ!」
「わかったわ」
私は立ち上がった。
「じゃあ、これからは代理人を通して話しましょう」
「……代理人?」
「弁護士に相談してあるの」
夫は固まった。
「……は?」
今日、三度目の「は?」だった。
「これまでのことは、全部説明してあるわ。必要な資料も確認してもらった」
「お前、そこまで……」
「ええ」
私は頷いた。
「ちゃんと準備したわ」
「……待てよ」
夫の声が、初めて弱くなった。
「ノゾミ、お前……本気なのか?」
私は玄関に置いていたキャリーケースを取りに行った。
夫が、目を見開く。
「……それ、何?」
「私の荷物」
「どこ行くんだよ」
「しばらく別のところで暮らすわ」
「待てって!」
夫が一歩近づいてきた。
私は足を止めた。
「トシアキ」
「……何だよ」
「あなた、カオリさんのことを『処理する』って言ってたわよね」
「……」
「私、あの言葉がずっと引っかかってたの」
夫は黙っている。
「人との関係って、面倒な書類や仕事のトラブルじゃないのよ」
私はキャリーケースの持ち手を握り直した。
「都合が悪くなったからって、お金で消して、なかったことにはできないの」
「……」
「私たちの結婚も同じ」
私は夫を見つめた。
「あなたは元通りになったつもりだったでしょうけど、私はもう、元通りになりたくないの」
夫は何も言わなかった。
私は玄関のドアを開けた。
背後から、かすれた声が聞こえた。
「……ノゾミ」
振り返る。
夫が、立ち尽くしていた。
「俺たち、夫婦だろ……?」
私は少しだけ微笑んだ。
「そうだったわね」
そして。
「だから、最後くらいはちゃんと話を聞いてほしかったわ」
ドアを閉めた。
七年間暮らした家の鍵が、静かに回る。
廊下を歩きながら、私は一度だけ目を閉じた。
泣きそうだった。
それでも、足は止まらなかった。




