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第6話(最終話) 元通りになったもの

夫からの最初の連絡は、家を出た翌朝だった。


『昨日のこと、頭冷やして考え直せ』


その三時間後。


『ノゾミ、お前だって悪いところあっただろ』


昼過ぎ。


『俺は本当に反省してる』


夕方。


『何で返事しないんだ?』


夜。


『帰ってこい。ちゃんと話そう』


私はそれらを保存し、必要な連絡は代理人を通して行うと伝えた。


すると、翌日には長いメッセージが届いた。


『俺はお前を愛してるんだよ。だからカオリとも別れたし、金も用意した。何でわかってくれないんだ?』


私はその文章を、何度か読み返した。


愛している。

だから、不倫相手と別れた。

だから、お金を用意した。

だから、離婚するのはおかしい。


どれだけ考えても、私には理解できなかった。

おそらく、もう一生理解できないのだと思う。


◇


それから、二か月。


話し合いは、思った以上に面倒だった。


夫は最初、離婚を拒否した。

次に、私がカオリさんに唆されたのだと主張した。

それから、私が冷静でなかったせいだと言い始めた。


最後には、金銭的な解決を持ち出してきた。


『慰謝料が欲しいんだろ? だったら最初からそう言えばいいじゃないか』


そのメッセージを見たとき、私はため息をついた。


(……本当に、最後までこれなのね)


夫は、すべての問題を金額に置き換えようとする。


私の気持ちも。

カオリさんの将来も。

これから生まれてくるかもしれない子どものことも。


誰かの意思を尊重するより先に、いくら払えば終わるのかを知りたがる。


けれど、今回は違った。


私は、夫の言う「解決金」を受け取って元の生活に戻るつもりはなかった。


慰謝料や財産分与は、弁護士と相談しながら一つずつ整理した。


私が譲れなかったのは、離婚するという一点だった。


夫が拒否を続けるなら、調停も視野に入れて進める。

そう伝えた。


すると、しばらくして夫の態度が変わり始めた。


◇


ある日。


夫の代理人を通じて、こんな提案が届いた。


『離婚には応じる。ただし、これ以上この件を周囲に話さないでほしい』


私はその一文を読んで、首を傾げた。


周囲に話さないでほしい。


そういえば、夫は不倫の件を職場の人たちに話していた。


自分がいかに誠実に問題を解決したか。

いかに妻が理解ある女性だったか。

家庭を守るために、どれだけ頑張ったか。


私は誰にも言いふらしていない。

なのに、夫はすでに、自分で話を広めていたらしい。


「……どうしてこうなるのかしら」


思わず呟いた。


自分を褒めてほしくて他人に話したことが、今度は自分の立場を苦しくしている。

それを私にどうにかしてほしいと言われても、困る。


私は代理人に、自分から私生活を広めるつもりはないが、必要な相談や手続は続けたいと伝えた。


それから数週間後。


ようやく、離婚の条件について双方の合意がまとまった。


◇


署名の日。


夫とは、久しぶりに顔を合わせた。


法律事務所の小さな会議室。

以前より、少し痩せたように見えた。


スーツを着た夫は、書類を前にして、落ち着かない様子で座っていた。


「……ノゾミ」


「何?」


「本当に、これでいいのか?」


私は頷いた。


「ええ」


「七年だぞ」


「そうね」


「七年も一緒にいたんだぞ、俺たち」


私は夫を見た。


その言葉には、少しだけ胸が痛んだ。


七年間。

楽しかったことも、嬉しかったことも、たくさんあった。


愛していた。

間違いなく、愛していた。


だから、今でも何かが終わってしまうことは悲しい。


けれど。


「トシアキ」


「……何だよ」


「私だって、七年間を無駄だったとは思ってないわ」


夫が顔を上げた。


「だったら……」


「でもね」


私は静かに続けた。


「七年間、一緒にいたことと、これからも一緒にいることは、別の話なの」


夫は黙った。


「楽しかった思い出があるからって、これから先も傷つけられていい理由にはならないでしょう?」


「……」


「私は、もう十分よ」


夫はゆっくり目を伏せた。


しばらくして、ぽつりと言った。


「……俺は、元通りになれると思ってた」


「ええ。そうでしょうね」


「だって、お前、怒らなかったから」


私は小さく頷いた。


「そうね」


「俺の話、ちゃんと聞いてくれたし……」


「ええ」


「いつもどおり、ご飯作って、笑って……」


夫の声がかすれた。


「だから、許してくれたんだと思った」


私は少しだけ考えた。

そして、答えた。


「あなた、私が何も言わなかった理由を、一度でも考えた?」


夫は顔を上げなかった。


「怒らなかったから、許した。泣かなかったから、傷ついていない。笑っていたから、幸せだった」


私はゆっくり言った。


「あなた、全部、自分の都合のいいように解釈していたのよ」


夫は何も言わなかった。


「私は、あなたの話をちゃんと聞いたわ」


「……」


「でも、あなたは私の話を聞かなかった」


沈黙が落ちた。


やがて夫は、机の上の書類を引き寄せた。

ペンを持つ。


そして、ゆっくりと署名した。


長かった。

本当に、長かった。


私はその文字を見つめながら、不思議な気分になった。


あの日。

リビングのソファで、夫が「カオリが妊娠した」と告げた日。


私は、この結末をどこかで予感していたのかもしれない。


けれど、今になって思う。


あのとき、もっと早く怒ればよかったのだろうか。

もっと早く泣けばよかったのだろうか。

もっと早く、私がどれだけ傷ついたのかを伝えれば、何か変わったのだろうか。


……多分。

何も変わらなかったと思う。


なぜなら夫は、私が怒ったとしても、きっと別の理由を見つけたはずだから。


ヒステリックだ。

嫉妬深い。

感情的だ。

話が通じない。


そう言って、また自分を正当化しただろう。


私がどんな反応をしても、この人は、自分が正しいと思える理由を探し続けたのだと思う。


「……なあ、ノゾミ」


署名を終えた夫が、声をかけてきた。


「何?」


「一つだけ、聞いていいか?」


私は頷いた。


夫は少しためらってから言った。


「お前、カオリのことは許したのか?」


意外な質問だった。


私は首を横に振った。


「許してないわ」


「……え?」


「今でも、彼女がしたことは間違っていたと思ってる」


夫は、理解できないという顔をした。


「じゃあ、何で協力したんだよ」


私は少し考えた。


「あなたと離婚したかったから、というのはあるわね」


「……」


「でも、それだけじゃない」


私は夫を見た。


「カオリさんも、私も、あなたに自分の人生を勝手に決めてほしくなかったの」


夫は黙った。


「彼女が産むかどうかは、彼女自身が決めること。私はあなたと夫婦でいるかどうかを、自分で決める」


「……」


「あなたが百五十万円を用意したからって、私たちの気持ちまで買えるわけじゃないのよ」


トシアキは何も言わなかった。


私は席を立った。


「じゃあね、トシアキ」


夫は顔を上げた。


「……ノゾミ」


「何?」


「俺、そんなに悪いことしたのかな……」


私はしばらく、夫の顔を見つめた。


この人は、今でもわからないのかもしれない。


何がいけなかったのか。

どうして妻が出ていったのか。

どうしてお金を払っても、何一つ元通りにならなかったのか。


私は少しだけ微笑んだ。


「それは、これから自分で考えて」


夫の返事を待たず、私は会議室を出た。


もう、この人に答えを教える義務はない。


◇


離婚届を提出してから、一週間が過ぎた。


新しい部屋にも、ようやく慣れてきた。


小さなキッチン。

一人用のテーブル。

窓際に置いた観葉植物。


朝起きて、誰かの機嫌をうかがう必要がない。

仕事から帰って、誰かの食事を用意する義務もない。

何を食べようが、何時に寝ようが、誰にも文句を言われない。


少し寂しい。

けれど、それ以上に気楽だった。


私はケトルでお湯を沸かした。

お気に入りのカップに紅茶を注ぐ。


湯気が、ゆっくりと立ち上った。


そのとき、スマートフォンが震えた。

カオリさんからだった。


『ノゾミさん、お久しぶりです。こちらも専門家に相談しながら、今後のことを整理しています。出産に向けた準備も進めています。いろいろとありがとうございました』


私は短く返信した。


『ご連絡ありがとうございます。お体を大切にしてくださいね』


送信。


私たちは、これからも友達にはならないだろう。

むしろ、もう会うことはないかもしれない。


それでいい。


彼女には彼女の人生がある。

生まれてくる子どものことも、トシアキとの今後の関係も、彼女が専門家と相談しながら考えていくことだ。


私はもう、そこに関わるつもりはない。


なぜなら。


私には、私の人生があるから。


スマートフォンを伏せた。


ふと、あの日のことを思い出した。


『カオリが妊娠した。どうすれば産ませずに済むか、相談に乗ってくれ』


夫は、あのとき。

私が何でも解決してくれると思っていた。

自分が何をしても許してくれると信じていた。

夫婦なのだから、最後には元通りになると、疑いもしなかった。


私は、紅茶を一口飲んだ。


温かい。

おいしい。


誰かの顔色をうかがわずに飲む紅茶が、こんなにおいしいなんて知らなかった。


「……ふふ」


思わず、笑みがこぼれた。


ねえ、トシアキ。


あなた、あの日言ったわよね。


『俺たちは元通りだ』って。


残念だけど、私たちは元通りにはならなかった。


でも、一つだけ。


元に戻ったものがあるのよ。


私は窓の外を見た。


雲の隙間から、朝日が差し込んでいる。


私の心。

私の時間。

そして、私自身の人生。


誰かの都合に合わせて、いつの間にか手放していたものを、ようやく取り戻した。


私は、もう一度カップを持ち上げた。


「……うん」


誰もいない部屋で、一人頷く。


「これで、元通りね」


もちろん。


あなたのいない、私の人生に。


―― 完 ――

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