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第4話 誠実な夫の作り方


「やっぱりさ、誠実さって大事だと思うんだよね」


ある晩、夫がそんなことを言い出した。

夕食の途中だった。


私は味噌汁を飲む手を止めた。


「何の話?」


「今日、会社の飲み会でさ」


トシアキは少し照れくさそうに笑った。


「武田たちに話したんだよ。カオリの件」


「……会社の人に?」


「ああ。隠すことでもないだろ。ちゃんと責任取ったんだし」


私は箸を置いた。


「それで?」


「みんな感心してたよ。普通だったら奥さんに離婚されてもおかしくないのに、俺は家庭を守ったって」


本当に?

そんなことを言う人がいるのだろうか。


「武田さん、何て?」


「え?」


「武田さんは、何て言ったの?」


夫は少し考えた。


「……『それ、本当に奥さんは納得してるのか?』って」


やっぱり。


「それで、あなたは何て答えたの?」


「もちろん、『ノゾミは俺を理解してくれてる』って答えたよ」


夫は胸を張った。


「そしたら武田が、何とも言えない顔をしてさ。あいつ、心配性なんだよな」


私は黙っていた。


夫は、他人が自分の期待した反応をしないとき、決まって相手に理由を求める。


心配性だから。

考えすぎだから。

自分の家庭とは違うから。


まさか、自分の考え方そのものが間違っているとは思わない。


「俺はさ、これからもお前を大切にするよ」


急に夫が真面目な顔をした。


「やっぱり夫婦って、何があっても支え合うものだと思うんだ」


その言葉には、どこか聞き覚えがあった。


結婚式の日。

親族や友人たちの前で、トシアキは似たようなことを言っていた。


『何があっても、ノゾミを大切にします』


あのときは、本当に嬉しかった。

この人となら、どんな困難も乗り越えられると思った。


七年。

長いようで、短い時間だった。


「……そうね」


私は呟いた。


「ねえ、トシアキ」


「何?」


「あなたが私を大切にしてくれたことって、最近、何かあったかしら」


夫はきょとんとした。


「あるだろ、いくらでも」


「例えば?」


「今回の件だってそうじゃん。お前と別れたくないから、カオリに金を払ったんだろ?」


私は微笑んだ。


「そうだったわね」


「そうだよ。お前が一番大事だから、俺は家庭を選んだんだ」


家庭を選んだ。


また、新しい言葉が出てきた。


まるで、私たちの結婚生活と不倫相手との関係が、同じ棚に並んだ商品だったかのようだ。


どちらにするか悩んだ末に、夫は私を選んでくれたらしい。

そのありがたい決断に、私は感謝しなければならないのだろう。


(……冗談じゃないわ)


思わず、味噌汁のお椀を握る手に力が入った。


私は、選んでもらうために結婚したんじゃない。

一緒に生きていくと約束したから、結婚したのだ。


その違いが、この人にはわからない。


◇


翌週。


私は有給休暇を取り、予約していた法律事務所へ向かった。


担当の弁護士は、落ち着いた雰囲気の女性だった。

私はこれまでの経緯を説明し、持参した資料を並べた。


カオリさんから提供されたメッセージ。

夫が不倫を認めた際の発言を記した記録。

支払金額の一覧表。

結婚生活の状況。


弁護士は一つずつ確認した。


「ご主人は、離婚のお話をまだご存じないんですね」


「はい」


「お伝えしたとき、どんな反応をすると思われますか?」


「……想像はつきます」


私は苦笑した。


「多分、『そんなはずはない』って言うと思います」


「なぜですか?」


「私が、夫を許していると思い込んでいるからです」


弁護士は静かに頷いた。


「今後の交渉では、事実関係を整理しながら進めましょう。離婚や金銭面の条件については、協議が必要です。話し合いでまとまらなければ、別の手続も検討できます」


「はい」


「それから、ご主人と直接お話しするときは、安全面にも気をつけてください。無理に一人で説得しようとする必要はありません」


私はその言葉を聞きながら、持参した資料に目を落とした。


夫が用意した百五十万円の一覧表。


あのとき夫は、私に自慢げに見せてくれた。

自分がいかに誠実な人間であるかを証明するつもりで。


ところが今、それは弁護士の前で、夫の説明がどれほど不自然かを確認する資料になっている。


なんとも皮肉な話だった。


「最後に、一つお聞きしてもいいでしょうか」


私は顔を上げた。


「どうぞ」


「離婚したいという気持ちに、迷いはありますか?」


私はすぐに答えようとして、言葉を止めた。


迷い。


ない、と言い切れば嘘になる。


七年間、一緒に暮らした人だ。

楽しかったこともある。

支えられたことだって、きっとあった。


初めて二人で借りた部屋。

安物の家具を組み立てながら笑った夜。

旅行先で雨に降られ、コンビニの傘を一本買って、肩を寄せ合って歩いたこと。


そんな記憶まで、全部が嘘になったわけではない。


だからこそ。


「……悲しくはあります」


私は言った。


「でも、戻りたいとは思いません」


弁護士は頷いた。


「わかりました」


その瞬間、私の目から涙が一粒落ちた。


自分でも驚いた。

夫の不倫を知ってから、一度も泣かなかったのに。


「すみません」


ハンカチを取り出す。


「自分では、もう整理できているつもりだったんですけど」


「構いませんよ」


その声は、優しかった。


私は少しだけ笑った。


どうやら、心まで完全に冷たくなったわけではないらしい。

それが、少し嬉しかった。


◇


帰り道。


私は不動産会社に立ち寄った。


一人暮らし用の、小さな部屋。

駅から徒歩十分。

日当たりは悪くない。

キッチンは狭いけれど、窓際に小さなテーブルを置けそうだった。


「こちらのお部屋、いかがですか?」


担当者に聞かれ、私は頷いた。


「いいですね」


一人で暮らすには、十分だった。


夫の帰宅時間を気にせずに済む。

夫の機嫌を読まなくて済む。

夫が散らかしたものを、黙って片づけなくてもいい。


そんな当たり前の生活を想像するだけで、胸が軽くなる。


私は、その部屋を申し込んだ。


スマートフォンが震えた。

トシアキからだった。


『今日、早く帰るから。晩飯よろしく!』


いつもと変わらないメッセージ。


私は返信した。


『わかったわ』


探りを入れることもなく、画面を閉じた。


夫は知らない。


私が今日、新しい部屋を見てきたことも。

弁護士に相談したことも。

すでに離婚の準備を進めていることも。


でも、それでいい。


私が何も言わないからといって、何も考えていないわけではない。


夫がこれまで、何度も何度も利用してきたその沈黙を。

今度は、私自身のために使う。


そして。


数日後。


私は一枚の紙を、リビングのテーブルに置くことにした。


夫が、何の疑いもなく「元通り」だと信じている、その場所に。

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