第3話 百五十万円の嘘
「ノゾミ! 解決したぞ!」
四日後の夜。
帰宅するなり、トシアキはそんなことを言った。
私はキッチンで食器を洗っていた。
「何が?」
「何がって、カオリの件だよ!」
夫は上着も脱がずに、得意げに胸を張った。
「完全に決着がついた。もう心配しなくていい」
蛇口を止める。
「そう。どうなったの?」
「金を払って終わりにした」
「いくら?」
「百五十万」
私は夫を見た。
「……百五十万円?」
「ああ。大金だろ? でも、家庭を守るためだからな」
夫は大げさにため息をついた。
「まったく、高い授業料だったよ。だけど、これでカオリとは完全に縁が切れた。養育費も払わなくていいって話にしたし」
その言葉が、耳に引っかかった。
「養育費も?」
「そう。向こうだって納得したんだよ」
なるほど。
夫の中では、もう全部終わったらしい。
「じゃあ、その証拠を見せてくれる?」
「証拠?」
「前にお願いしたでしょう。きちんと解決したってわかるものを見せてほしいって」
夫は一瞬だけ眉をひそめた。
だが、すぐに笑った。
「心配性だなあ、お前は」
「そうね」
「まあいいよ。俺がどれだけ頑張ったか、見せてやる」
トシアキは鞄から一枚の紙を取り出した。
パソコンで作ったらしい、簡単な支出一覧表だった。
私はテーブルに置かれた紙を覗き込む。
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トシアキ作成・問題解決費用一覧
カオリへの支払い
500,000円
ノゾミへの補償準備金
1,000,000円
合計
1,500,000円
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私は、その紙を三秒ほど眺めた。
それから夫を見上げた。
「……ねえ」
「何?」
「これ、どういうこと?」
「何が?」
「カオリさんに払ったのは、五十万円?」
「そうだよ」
「さっき、百五十万円払ったって言わなかった?」
夫は不思議そうに私を見た。
「合計で百五十万だろ?」
「残りの百万円は?」
「お前への補償分だよ」
「私への?」
「そう。悪かったと思ってるから、ちゃんと用意したんだ」
少しだけ、胸が温かくなるような錯覚を覚えた。
少なくとも、私に対して何かを償おうという気持ちはあったのだろうか。
……いや。
待って。
「その百万円、どこにあるの?」
「俺の口座」
「……あなたの口座?」
「そう。別に管理してある」
「私の口座には入ってないわよね」
「当たり前だろ。まだ渡す必要ないじゃん」
「じゃあ、私が受け取ったお金は?」
「だから、用意してあるって言ってるだろ」
夫は苛立ったように声を上げた。
私はもう一度、一覧表を見た。
カオリへの支払い、五十万円。
妻への補償準備金、百万円。
合計、百五十万円。
この人は、妻への補償として自分の口座に百万円を残し、それを「責任を取るために使ったお金」として計上しているらしい。
つまり。
実際に手元から出ていったのは、五十万円だけ。
百万円は、今も夫の管理下にある。
(……すごい)
私が受け取ってもいないお金で、私に対する責任まで果たすことになっている。
こんな会計処理が通用するなら、世の中に借金で困る人はいなくなるだろう。
「ノゾミ?」
「ええ」
「わかった?」
私は紙から顔を上げた。
「うん。よくわかったわ」
心の底からの言葉だった。
夫は満足げに頷いた。
「だろ? 俺だって何も考えてないわけじゃないんだよ」
そう言って、ソファに腰を下ろした。
「ま、これで全部水に流そうぜ。俺も反省したし、お前もあんまり気にするなよ」
私は一覧表を見つめた。
カオリさんへの五十万円。
私への百万円。
そして、すべてを解決したつもりになっている夫。
ここまで来ると、不思議な気分だった。
まるで、ものすごく出来の悪い手品を、目の前で披露されているような。
しかも手品師本人だけが、観客を完璧に騙せたと思っている。
「ねえ、トシアキ」
「ん?」
「この紙、もらってもいい?」
「いいけど?」
「ありがとう。大切に取っておくわ」
夫は嬉しそうに笑った。
「そうだろう、そうだろう。お前のために俺が頑張った証拠だからな」
「……ええ」
私は紙を丁寧に折り、引き出しにしまった。
◇
その夜、カオリさんから連絡があった。
『本日、トシアキさんから五十万円が振り込まれました。私は妊娠中の費用の一部として受け取っただけで、今後の請求をしないという書類にはサインしていません。何度もサインを求められましたが、断りました』
続けて、振込記録と夫からのメッセージが送られてきた。
『金を払ったんだから、もう蒸し返さないでくれよ』
私は画面を見つめた。
『わかりました。記録は大切に保管してください。今後のことは、相談されている専門家と決めてくださいね』
そう返信する。
夫は「完全に解決した」と言った。
カオリさんは「何も終わっていない」と言っている。
私は、そのどちらを信じるべきか迷わなかった。
夫の作った一覧表を、もう一度引き出しから取り出す。
一番下には、太字でこう書かれていた。
『合計負担額 1,500,000円』
私は思わず小さく笑った。
トシアキ。
あなたが百五十万円で買ったと思っているもの。
それは、私の許しでも、カオリさんの沈黙でもないわ。
ただの、あなた自身の安心感よ。
風が吹けば吹き飛ぶような、薄っぺらな安心感。
そして残念だけど。
そんなものに、百五十万円の価値はないと思う。




