第2話 妻と不倫相手
翌日の午後。
私は駅から少し離れた喫茶店にいた。
向かいに座っているのは、カオリさん。
最後に会ったときとは、ずいぶん印象が違っていた。
食事会では明るく笑っていた彼女が、今は両手でカップを包み込み、うつむいている。
「……本当に、すみませんでした」
最初に口を開いたのは、カオリさんだった。
「トシアキさんが結婚していることは知っていました。だから、私にも責任があります」
「そうですね」
私は頷いた。
そこで「いいんですよ」と言ってあげるほど、私は優しくない。
「あなたにも責任があります。それは、わかっておいてください」
「はい」
彼女は小さく頭を下げた。
しばらく、沈黙が続いた。
カップを置く音が、やけに大きく響く。
「それで、妊娠のことなんですが……」
「ええ」
「病院で確認しました。今のところ、私は産むつもりでいます」
そう言ったカオリさんの声は、少し震えていた。
「ただ、トシアキさんは……」
言いかけて、唇を噛む。
「産むなら一切関わらないって。認知もしないし、養育費も払わないって言われました」
私は目を閉じた。
やっぱり。
そんな気はしていた。
「それで、私が産みたいと言ったら、奥さんに説得してもらうって」
「……そう」
「ノゾミさんなら、私を納得させられるからって」
私は思わず笑ってしまった。
声は出なかったけれど、口元だけが動いた。
「本当に、そういうことを言う人なのね」
「え?」
「いえ。こちらの話です」
カオリさんはバッグからスマートフォンを取り出した。
「これ、見ていただけますか」
画面には、トシアキとのメッセージが表示されていた。
『産むなら俺は関係ないからな』
『50万くらいなら出す。それで終わりにしてほしい』
『家庭を壊すつもりはないんだよな?』
『ノゾミは話のわかる女だから、きっと何とかしてくれる』
(……へえ)
私は画面を見つめた。
不倫相手にまで、妻のことをそんなふうに紹介していたらしい。
「すごいわね」
「……はい?」
「うちの夫」
褒めているわけではない。
むしろ、ここまで来ると感心する。
この人の頭の中では、きっと世界中の人間が、自分の都合に合わせて動くことになっているのだろう。
「カオリさん」
「はい」
「あなた、これからどうするつもり?」
彼女は顔を上げた。
「……産みたいです」
「そう」
「怖いです。仕事のことも、お金のことも。でも、トシアキさんに言われたからって、自分の意思を変えたくないんです」
私は頷いた。
「だったら、きちんと相談できる人を探したほうがいいわ。弁護士でも、自治体の相談窓口でも。あなた一人で抱える問題じゃないもの」
「……ノゾミさんは、怒ってないんですか?」
不思議そうな質問だった。
私は少し考えた。
「怒ってるわよ」
「え……」
「あなたのことも、夫のことも、許してない」
カオリさんの顔が曇った。
「でもね」
私はカップを置いた。
「あなたが私を傷つけたことと、お腹の子のことは、分けて考えるべきだと思っているの」
彼女は何も言わなかった。
「私が腹を立てているからって、あなたに産むなと要求する権利はないでしょう?」
「……はい」
「それから、もう一つ」
私は彼女の目を見た。
「私は、トシアキと離婚するつもりよ」
カオリさんの目が大きく開いた。
「えっ……」
「驚いた?」
「だって……トシアキさんは、ノゾミさんが許してくれたって……」
「そうでしょうね」
思わず苦笑した。
「私がいつ許したのか、私にもわからないんだけど」
「……」
「夫は、私が怒鳴らなかったから許されたと思っているの。離婚を口にしなかったから、これからも一緒に暮らすと思っている」
私は一度、息を吐いた。
「でも、違うのよ」
カオリさんはじっと私を見つめていた。
「私はもう、あの人と一緒に生きていく気がないの」
初めて口にした言葉だった。
不思議なほど、すんなりと出てきた。
「……じゃあ、どうして今日、私に会ってくださったんですか?」
「事実を知りたかったから」
私は答えた。
「夫は都合の悪いことを隠す人だから。あなたからも話を聞いて、自分で判断したかったの」
少し間を置いた。
「それと、あなたにも知っておいてほしかったの。私は、夫の代理人じゃないって」
カオリさんは、ゆっくり頷いた。
「ノゾミさん」
「何?」
「このメッセージ、必要ならお渡しします」
彼女がスマートフォンをこちらに向けた。
「私も、トシアキさんに言われたことを、なかったことにはしたくないので」
「……ありがとう」
私は受け取ることにした。
もちろん、それで彼女を許したわけではない。
同じ男に傷つけられたからといって、私たちが突然、友達になれるわけでもない。
けれど。
この問題に限って言えば、私達には一つだけ共通する目的があった。
トシアキに、都合のいい嘘で終わらせないこと。
それだけで、今は十分だった。
◇
夜。
トシアキは上機嫌だった。
「どうだった? カオリと話した?」
「ええ。連絡は取ったわ」
「で?」
「あなた自身が、ちゃんと話したほうがいいと思う」
「なるほどな。最後は俺が決めてやれってことか」
……違う。
一字一句、何も伝わっていない。
「まあ安心しろよ。俺だって考えてるから」
トシアキは冷蔵庫からビールを取り出した。
「多少金がかかっても、カオリに納得してもらう。それで全部終わるだろ」
「そう」
「ノゾミには苦労かけたけどさ。これからは二人で幸せになろうな」
そう言って、笑う。
私も微笑んだ。
(そうね)
(幸せには、なりたいわ)
ただし。
あなたと二人で、とは言っていない。
その夜、私は夫が寝静まったあと、カオリさんから受け取ったメッセージを整理した。
日付。
発言内容。
夫が認めた事実。
そして、私自身が聞いた言葉。
ノートの最初のページに、一行だけ書いた。
『夫は、不倫相手の妊娠を妻に相談した』
その下に、もう一行。
『妻に、中絶の説得を依頼した』
これから必要になるのは、怒りではない。
正確な記録だった。
夫は知らない。
自分が頼りになると思っている妻が、今、誰のために動いているのかを。




