第1話 夫からの相談
「カオリが妊娠した」
夫のトシアキは、そう言ってソファに腰を下ろした。
帰宅して五分。
ネクタイを緩め、スマートフォンをテーブルに伏せて置き、冷蔵庫から取り出した缶ビールを開ける。
まるで、仕事で面倒な案件を押しつけられた、とでも言いたげな態度だった。
私は向かいのソファに座ったまま、夫の顔を見つめた。
「……カオリさんって、あの?」
「ああ。前に話しただろ。会社の知り合いの」
覚えている。
一度だけ会ったことがある。
夫の会社の人たちが集まる食事会で紹介された、私より少し若い女性だ。
よく笑う人だった。
「それで?」
「いや、それでって……妊娠したんだよ。俺の子らしい」
「そう」
自分でも驚くほど、平坦な声が出た。
トシアキは少し不満そうに眉を寄せる。
「聞いてる?」
「聞いてるわよ」
「だからさ、どうすれば産ませずに済むか、一緒に考えてほしいんだ」
私は瞬きをした。
一回。
二回。
そして、夫の顔を見直した。
この人は、いったい何を言っているのだろう。
「……私に?」
「ほかに誰がいるんだよ」
当たり前だろう、と言いたげな顔だった。
「お前、こういう話は冷静に考えられるだろ? 俺だって困ってるんだよ。カオリが変なこと言い出したら面倒だし」
「変なこと?」
「産むとか、認知しろとか、養育費を払えとか。そういうの」
私は手元のカップを見下ろした。
さっき淹れた紅茶は、まだ温かい。
カップの縁には、小さな茶葉が一つ張りついていた。
不思議なことに、そんなものばかりが目に入る。
夫が不倫をした。
相手が妊娠した。
そして、その相手に中絶を勧める役を、妻である私に依頼している。
一つ一つの事実は理解できる。
けれど、それらが一本の線につながらない。
「トシアキ」
「ん?」
「あなた、私が誰だか覚えてる?」
「は?」
「あなたの妻よね?」
「何言ってんだよ。当たり前だろ」
「そう」
よかった。
少なくとも、そこは認識しているらしい。
「だったら、どうしてその相談を私にするの?」
夫は心底不思議そうな顔をした。
「いや、夫婦だろ?」
「……」
「俺が困ってるんだから、助け合うのが普通じゃないか。もちろん悪いとは思ってるよ。でも、夫婦なんだから、お互いに反省するところもあるだろ?」
お互い。
反省。
私は頭の中で、その二つの言葉を繰り返した。
(私の反省点って、何?)
夫の不倫に気づかなかったこと?
不倫相手を妊娠させないよう、夫を監視していなかったこと?
それとも、夫が安心して浮気できる家庭を提供してしまったことだろうか。
(……駄目だわ。全然わからない)
しかし、どうやら夫の中では、すでに結論が出ているらしい。
「今回はさ、お互い大人なんだから流そうよ。俺だって失敗したと思ってるんだし」
失敗。
その言葉に、私はようやく少しだけ腹が立った。
この人は不倫を、飲み会の帰りに財布を落とした程度の失敗だと思っているのだろうか。
「ねえ、トシアキ」
「何?」
「カオリさんは、何て言っているの?」
「だから、それをこれから何とかするんだよ」
「そうじゃなくて。カオリさん自身は、どうしたいと言っているの?」
「産みたいみたいなことは言ってたけど……本気かどうかわからないだろ」
「本人に確認したの?」
「だから、お前に相談してるんだって」
なるほど。
ようやくわかった。
この人は、自分が何をしなければならないのか、理解していないのではない。
理解する必要がないと思っているのだ。
なぜなら、私がいるから。
家事を分担すると言いながら、いつの間にか私が全部やっていたように。
面倒な親戚付き合いを、いつの間にか私が引き受けていたように。
今度は不倫相手との問題も、妻が片づけてくれると思っている。
結婚七年目。
私は今、自分が夫にどう扱われていたのか、初めてはっきりと理解した。
「まず、カオリさん本人とちゃんと話しなさい」
私は静かに言った。
「妊娠しているのはカオリさんでしょう。産むかどうかを決めるのも、あなたや私じゃないわ」
「まあ、そうだけどさ」
「彼女の意思を確認して。それから、あなた自身がどう責任を取るつもりなのか考えなさい」
夫は腕を組んだ。
少し考えるような顔をする。
そして。
「……なるほどな!」
突然、明るい声を上げた。
「さすがノゾミ! やっぱりお前は賢いよ!」
「……は?」
「先に相手の希望を聞いてから、こっちの条件を出すわけだな。確かに、そのほうが交渉しやすい」
違う。
そうじゃない。
「いやあ、助かった。やっぱりノゾミは俺のことを一番理解してるよな」
夫は満足そうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、私の中に残っていた何かが、静かに音を立てた。
壊れた、というより。
外れた。
長い間、きつく締められていた留め金が、ようやく外れたような感覚だった。
「カオリさんの連絡先を送ってくれる?」
私は言った。
「え? 何で?」
「あなたの話だけじゃ、何が起きているのかわからないから。必要なら、本人にも確認するわ」
「おお、そうか!」
夫の顔が輝いた。
「頼むよ、ノゾミ。俺、やっぱりお前と結婚してよかった!」
スマートフォンが震えた。
夫から送られてきた連絡先だった。
「じゃ、俺、風呂入ってくるわ」
鼻歌を歌いながら、トシアキがリビングを出ていく。
私はその背中を見送った。
そして、ゆっくりとスマートフォンを持ち上げた。
画面には、カオリという名前と電話番号。
初めて夫の不倫を知った夜。
私は怒鳴らなかった。
泣きもしなかった。
ただ、一つだけ決めた。
もう、この人の後始末はしない。
自分の人生の後始末をする。
私はメッセージを入力した。
『突然のご連絡、失礼します。トシアキの妻、ノゾミです。夫から妊娠のことを聞きました。一度、お話しできませんか』
少し考えてから、一文を付け足した。
『中絶をお願いするための連絡ではありません』
送信。
数秒後。
画面に、小さく「既読」の文字が浮かんだ。




