幕間:風じゃなくて
放課後。
「お、春だ!」
帰り支度をしていると、少し離れたところから高峰くんの声が飛んできた。
顔を上げる。
高峰くんの隣には、千咲ちゃんと天野くんもいた。
「春ちゃん、一緒に帰ろ!」
千咲ちゃんが鞄を肩に掛けながら、こちらへ手を振る。
「あ……」
少しだけ迷った。
最近は、こうして三人と一緒にいることが増えた。
最初は千咲ちゃんと天野くんがいて。
そこへ高峰くんが混ざって。
気づけば、私もその近くにいることが増えていた。
昨日だって、四人で一緒に安全演習を受けていた。
まだ、三人みたいに自然に会話に入れるわけじゃない。
それでも、一緒にいるのは嫌じゃなかった。
むしろ、楽しいと思う。
だから、いつもなら一緒に帰っていた。
「……ごめん。今日はちょっと、用事があるから」
「そっか」
千咲ちゃんは、それ以上何も聞かなかった。
「じゃあまた明日ね、春ちゃん!」
「うん、また明日」
「じゃーな、春!」
「また明日、高峰くん」
天野くんとも目が合う。
「また明日」
「……うん、また明日」
三人が教室を出ていく。
少しして。
廊下から、三人の声が聞こえてきた。
よく聞き取れないけれど、楽しそうな声色だった。
何を話しているんだろう。
少しだけ笑ってしまった。
その声も、だんだん遠ざかっていく。
私は机の横に掛けていた鞄を持ち上げた。
用事がある。
嘘ではない。
ただ。
一人になる時間がほしかった、と言った方が正しかったかもしれない。
◇ ◇
向かったのは、いつもの実技場だった。
いつも授業で使っている訓練区画とは少し違って、十メートル四方くらいの正方形に区切られた小さな空間がいくつも並んでいる。
授業で使われることもあるらしいけれど、私たちはまだ授業で使ったことはない。
ここは主に放課後、自主練習の場として使われている。
私にとっては見慣れた場所。
放課後の空気は、昼間よりずっと静かだった。
何人かの生徒が練習をしている様子を見ながら奥へと進む。
私は、空いている部屋を選んで、邪魔にならないところへ鞄を置いた。
自分の右手を見る。
「…………」
昨日から、何度もこの手を見ている。
教室でも。
寮へ戻ってからも。
そして今も。
昨日見たものが、ずっと頭に残っている。
崩れかけた建物。
空へ持ち上がった瓦礫。
何棟もの家屋。
それらを持ち上げる、巨大な竜巻。
三年生の九条綾人先輩。
生徒会長。
三年生の中でも、一番強いらしい。
それくらいしか知らない。
話したこともない。
魔法を教えてもらったわけでもない。
ただ、昨日の光景が頭から離れなかった。
私は右手を前に向けた。
少し離れたところに、練習用の標的がある。
息を吸う。
心臓から腕、腕から掌へと魔力を流す。
風が集まる。
掌の前で空気が圧縮され、小さな風の塊になる。
狙って、放つ。
ひゅん、と風を切る音。
風の弾は標的にぶつかり、乾いた音を立てる。
標的が少し揺れた。
「…………」
いつも通り。
何も変わらない。
当たった。
失敗はしていない。
でも。
もう一度、右手を上げる。
昨日見たものを思い出す。
大きな竜巻。
それをイメージしながら腕から掌へと魔力を通していく。
さっきより多く風を集める。
掌の周りで、空気が動く。
髪が揺れる。
スカートの裾がはためいた。
もっと。
魔力を込める。
足元の砂が舞う。
風が強くなる。
でも。
「……っ」
激痛。
腕が焼かれるように痛んだ。
私の意思とは関係なく、膝から力が抜けてすとんと座り込んでしまう。
心臓の音が大きい。
どくん、どくんと大きな音がする。
私はスカートについた砂を払って立ち上がる。
もう一度、魔力を流す。
もっと。
もっと強く。
そう思うほど、風の流れが乱れていく。
砂が不規則に舞い上がり、髪が顔にかかる。
思うようにまとまらない。
「……」
一度、魔力を止めた。
風が消える。
舞い上がった砂が、ぱらぱらと地面へ落ちた。
当然だった。
同じことなんてできるはずがない。
同じ風属性というだけで、同じことができるわけがない。
そんなこと最初から分かっている。
四月の授業でも習ったこと。
でも、だけど。
私はもう一度、標的へ右手を向けた。
今度は、いつもの風の弾。
これならできる。
風を集める。
圧縮する。
放つ。
乾いた音。
標的が揺れる。
もう一度。
さっきより強く。
風を集める。
放つ。
標的がさっきよりも少しだけ大きく揺れる。
もう一度。
今度は、もっと魔力を込める。
掌の前で風が荒れた。
それを無理やり押さえ込み。
放つ。
今までで一番大きな音が響いた。
標的が揺れる。
でも。
それだけだった。
「…………」
腕を下ろす。
少し息が上がっていた。
額にも汗が滲んでいる。
心臓のあたりが少し痛い。
鼓動の音が大きい。
何度やっても、昨日までの私と、大して変わらない。
分かっていた。
分かっていたはずなのに。
胸の奥が石のように重かった。
私は、風が強いなんて思ったことがなかった。
この前、みんなで一番強い属性について話した時も。
私は風を選ばなかった。
水の方がいいと思った。
色々なことに使えるから。
でも、結衣ちゃんは風が好きだと言っていた。
私は、同じようには思えなかった。
火みたいな強さもない。
雷みたいな速さもない。
土みたいな硬さもない。
風はそういうものだから。
そう思っていた。
仕方ないと思っていた。
風だから。
「…………」
昨日までならそこで思考を止めることができた。
言い訳ができた。
だけど、もう、昨日の光景を忘れることはできなかった。
空に浮かぶ家。
何棟分もの瓦礫。
演習場の屋根を突き破りそうな大竜巻も、同じ、風の魔法だった。
私が弱いのは、風属性だからじゃない。
右手を見る。
私は弱い。
でもそれは。
「……風が弱いんじゃない」
声にしてみる。
喉が詰まるような感覚。
この先を口にしたくない。
静かな実技場に、自分の声だけが残った。
「……私が、弱いんだ」
気づけば拳を握りしめていた。
今まで曖昧にしていたもの。
見ようとしなかったこと。
私の魔法が弱いのは、風だからじゃない。
私が、弱いから。
「…………」
悔しい。
苦い感情がゆっくりと胸の奥に沈んでいく。
九条先輩みたいになれないことくらい分かっている。
あんな魔法、三年生になった私が使えるようになる未来も見えない。
だけど、そこから目を逸らして、私と先輩は違うからって割り切るのは、きっといけないことだと思った。
気づけば、もう随分と傾いた太陽が、校舎を赤く染めていた。




