第12話:圧倒的な風
五月に入って少し経ったある日のこと。
俺たちは、先生に連れられて学園の奥へ向かっていた。
いつもの訓練場を通り過ぎた、さらにその先。
高い防護壁に囲まれた場所へ足を踏み入れたところで、翔太が立ち止まった。
「街じゃん」
俺も思わず周囲を見回す。
たしかに、そう見えた。
舗装された道路。
その両脇に並ぶ二階建てや三階建ての建物。
細い路地。
交差点。
店を模したらしい建物まである。
ただし、人が生活している気配はない。
看板に文字はなく、窓の向こうにも家具らしいものはほとんど見えなかった。
「こんなところあったんだ」
隣で千咲が物珍しそうに建物を見上げる。
少し後ろでは、春も街並みを静かに眺めていた。
他のA組のみんなも、思い思いの感想を口にしながら足を進める。
そして今日は、俺たちA組に加えて、B組とC組もいた。
普段の実技とは、随分雰囲気が違う。
「ここは市街地演習場」
三クラスが揃ったところで、上里先生が目の前の街並みへ視線を向ける。
「実際の住宅街を想定して造られてる。建物の倒壊、道路の寸断、事故。そういう状況での避難や救助を訓練するための場所だ」
「今日はここで戦うんすか?」
大地が少し期待したように身を乗り出したが、
「……話聞いてたか?避難や救助を訓練する場所だって言っただろ」
すぐに切り捨てられてしまった。
「今日は安全演習。お前たちには、危険予測から避難までやってもらう」
「避難?」
「そうだ」
上里先生は近くにある三階建ての模擬住宅を指差した。
「魔法を使ってりゃ事故は起きる。出力を間違える。狙いを外す。建物が壊れる。そういう時、どこが危険で、どこへ逃げるべきかを覚えてもらう」
敵を倒すための実技じゃない。
事故が起きた時に、どうやって自分と周りを守るか。
そのための演習とのことだった。
「建物には倒壊を再現する仕掛けが入ってて、傾いても途中で安全装置が作動して止まる。その後は自動で元に戻るから、勝手に触るなよ」
そこで先生は一度言葉を切り、俺たちを見回す。
「ただし、安全装置があるからって油断するな。訓練にならねぇ。本当に建物が倒れてくるつもりで動け」
さっきまで少し浮ついていた空気が、少しだけ引き締まった気がした。
「それと、一番大事なこと」
先生の視線が俺たちの間を動く。
「何か起きても、勝手に助けに行くな」
「えー」
翔太が露骨に不満そうな声を出した。
「お前は絶対そう言うと思ったよ」
「だって目の前で困ってるやついたら助けるでしょ」
「だから、そうやって二次被害起こす奴が一番面倒なんだよ」
上里先生が翔太の額を指で軽く押す。
「いて」
「その結果、助ける側まで巻き込まれたら、要救助者が二人になるだろ」
翔太は不服そうにしつつも、先生の話を聞いている。
「お前らはまだ一年だ。経験も力も足りねえ。まずは自分が安全な場所まで動け」
「……はーい」
上里先生は全員に向き直った。
「いくら訓練でも指示は絶対に聞け。いいな」
今度は全員から返事が返った。
◇ ◇
演習が始まった。
「右側、倒壊!」
教師の声が響く。
直後。
道路脇の模擬住宅から、大きな音が鳴った。
外壁がゆっくりと傾いていく。
このまま倒壊するとなると、安全そうなのは
「左の路地だ!」
俺が思うのとほぼ同時に誰かの声が飛ぶ。
その場を離れた直後。
外壁がさらに傾き――。
途中で、ぴたりと止まった。
「おお」
翔太が振り返る。
さっき説明されていた通りだ。
完全に倒れきる前。
地面までまだかなり余裕を残したところで固定されている。
数秒後。
低い機械音とともに、傾いていた外壁がゆっくりと起き上がり始めた。
やがて元の位置へ戻る。
「すげえな、これ」
翔太は感心したように見ていた。
「高峰!よそ見するな!」
上里先生に怒られ、慌てて正面へ向き直る。
次は道路が塞がれた場合。
その次は、二つの建物が同時に倒壊し始めた場合。
さらに、正面の道が使えなくなり、別の路地へ逃げなければならない場合。
建物が傾く。
危険な方向を見る。
安全そうな場所を急いで探す。
そちらへ移動する。
一定の角度まで倒れると、安全装置が作動する。
そして、またゆっくりと元の位置へ戻っていく。
最初は建物から大きな音がするたびに身体が固まっていたけど、何度か繰り返すうちに、少しずつ慣れてきた。
周囲の状況を確認して、俺たちは比較的安全そうな広い道路へと移動する。
全員が同じ場所に避難するわけではないが、それでも、危ない場所を選んで動いてしまう人はもういなかった。
初めの数回は、先生たちの怒号が飛んでいたけど。
左右には戸建ての住宅。
正面には三階建ての大きな建物。
俺たちはそれぞれ周囲を確認する。
どの建物が倒れてきてもいいように、事前に周囲の状況を確認しておく。
いつの間にかそんな流れができていた。
演習開始から十五分ほどの僅かな時間でも、人は成長するものらしい。
そんなことを考えていると、ぎし、と音を立てて正面の建物が傾き始めた。
「右に行こう!」
俺たちはいつの間にか、千咲、翔太、春、そして俺の四人で固まって動いていた。
安全そうな場所を見つけた誰かが指示をする。
今回は千咲の指示だった。
言うが早いか、俺たちは素早く走って右の路地に避難する。
ふと顔だけを出して様子を見ると、建物が大きく手前に影を落として傾いていた
もうすぐ止まる。
そのはずだった。
ギシ。
予定の角度まで傾く。
でも。
「…………?」
軋むような音を立てながら、建物がどんどん傾いている気がする。
「え」
誰かの声。
次の瞬間。
バキ
演習中に聞こえたことのない、嫌な音。
視線が建物に固定される。
そしてまた、先程と同じ嫌な音がする。
今度は分かった。
二階のベランダ部分から屋根に向かって伸びていた、支柱のようなものが折れた音だ。
柱の一部だった木片が勢いよく飛んでくる。
カラン、カラン、と音をならして転がり、ちょうど目の前で止まった。
「何してる!早く逃げろ!!」
上里先生の怒号。
「全員、演習場の外へ退避!」
空気が一変した。
「四番道路に出ろ!出口まで一直線だ!そのまま真っ直ぐに走れ!」
上里先生の指示が飛ぶ。
「まもるん、はやく!」
千咲に背中を押されて我に返る。
世界の時間が、一気に加速し始めた気がした。
後ろを振り返ると、千咲が俺を真っ直ぐに見つめていた。
さらにその後ろでは、腰が抜けてしまった春の手を引いて、翔太がなんとか立ち上がらせたところだった。
直後、巨人でも倒れたかのような轟音が響く。
音の発生源を確認している余裕はない。
いや、確認するまでもない。
さっき倒れかけていた建物が、地面まで倒れた。
明白だった。
指定された道路へと勢いよく飛び出した。
そのまま出口に向かって全力で走る。
先生の言う通り、出口までは一本道だった。
前を、見知った顔が何人も走っている。
「千咲!」
「いるよ!」
「翔太!」
「大丈夫だ!春もいる!」
走りながら声を確認する。
俺の少し後ろ。
春も翔太に手を引かれながらついてきているようだった。
その間にも、嫌な音は続いていた。
木が折れた音。
重い何かがぶつかった音。
倒れた音。
続いて、ぎしぎしと別の場所からも軋みが聞こえる。
「東側も外へ!」
「止まらないで!そのまま出口まで!」
教師たちの声が飛び交う。
見たことのない――おそらくB組かC組の男子生徒が、路地から飛び出して俺たちの少し前を駆ける。
その直後。
「きゃあ!」
後方から高い悲鳴。
走りながら、反射的に後ろを見る。
翔太と春のさらに後ろ。
俺たちから数メートル後方に、一人の女子生徒が立ち尽くしていた。大きく傾いた住宅の外壁が、彼女の顔に黒い影を落とす。
間に合わない、そう思った。
「危ない!走って!」
横から千咲の大声。
俺たちの横を疾風のような速さで何かが通り抜けた。
女子生徒と倒壊する壁の間に割って入り、緑色の魔力を纏った両手をコンクリートの地面に叩きつけた。
直後、コンクリートを突き破って大きな木が伸び、壁はそれに受け止められて動きを止めた。
まだ若い、B組の女性担任だった。
悲鳴から3秒にも満たない、僅かな時間の出来事だった。
「早く行きなさい!」
腕が震えている。
外壁を支えたままで生徒たちへ大声を飛ばす。
立ち竦んでいた女子生徒が、ハッとしたように走り出す。
外壁の倒壊範囲から脱出したのを見届けた後、先生も大きく後ろへ跳んだ。
木は一瞬にしてその姿を消し、支えを失った外壁が道路に激突する。
轟音。
砂埃が舞い上がった。
「よそ見すんな!」
前方から上里先生の声がした。
俺たちは前に向き直って走る。
上里先生は出口の真横に立ち、睨みつけるようにして中の様子を見守っていた。
その横をすり抜けて、俺たちはようやく演習場から飛び出した。
「そのまま行け!」
背後から声が飛ぶ。
出口から二十メートルほど進んだところに、先に演習場を出ていたクラスメイトたちが座り込んでいるのが見えた。
気が抜けたのか、脚に力が入らない。
俺はどうにかみんなのところまで走り、ようやく足を止めた。
「全員いるな?」
後ろにいたはずの上里先生は、いつの間にかみんなの前にいた。
俺も周囲を見る。
千咲。
翔太。
春。
他のみんなもいる。
全員。
どうやら、A組の中では俺たちが最後だったらしい。
「A組、在籍二十名確認!」
上里先生の声が飛ぶ。
別のクラスの担任からも次々に声が飛んだ。
「B組、全員います!」
「C組もだ!」
千咲は汗で額に張りついた髪を指で拭い、心配そうに演習場の中を見ていた。
次の指示を待つために上里先生の方を見ると、瞬間移動みたいな速度で女性教師が表れた。B組の担任だ。深い緑色をした長い髪が、急停止した勢いでふわりと揺れた。
「中の確認終わりました。残存生徒なしです!」
上里先生は一度大きく息を吐いた。
「…………全員退避完了だ」
それを聞いて、俺も、ようやく少しだけ息ができた。
◇ ◇
「……すごいことになってるな」
翔太の声から、いつもの軽さが消えていた。
市街地演習場を見る。
さっきまで本物の住宅街みたいだった場所。
二棟は完全に道路へ倒れている。
別の建物では外壁が崩れ、その奥では、屋根が大きく傾いていた。
まだ終わっていない。
まだ音がする。
倒れた建物が隣の住宅へとぶつかっている。
その衝撃で、今度はそちらがゆっくりと傾き始める。
「また倒れる……」
千咲が呟く。
教師たちも演習場を見ている。
けれど、もう中へ戻ろうとはしなかった。
「建物はいい。各クラス、戻るぞ」
上里先生の短い指示。
若い女性教員と、無精髭の男性教員もそれぞれ自分のクラスの前へ向かう。
迷いはなかった。
市街地演習場は訓練施設。
建物は壊れたら直せばいい。
中に誰もいないのなら、わざわざ危険を冒してまで倒壊を止める必要はない。
そういう判断なのだろう。
上里先生はもう移動を始めようとしている。
その時だった。
「――止めます」
短い声。
一人の男子生徒が、俺たちの横を通り過ぎた。
同じ制服。
でも、ネクタイの色が違う。
上級生だ。
その人は迷うことなく、市街地演習場の入口へ向かっていく。
「危ないから下が――」
B組の担任はそこまで言いかけて。
彼の横顔を見て、言葉の続きを飲み込んだ。
「……九条くん」
聞いたことのない名前だった。
上級生が顔を向ける。
「はい」
B組の担任は、一瞬だけ市街地演習場を見る。
それから、短く。
「危険と判断したら、あなたもすぐに離れて」
それだけ告げた。
「はい」
九条と呼ばれた上級生は、そのまま入口へ向かっていく。
「B組、戻るよ!」
「C組も戻るぞ!負傷者は担いでやるから申し出ろ!」
そして上里先生も。
「A組、行くぞ」
迷うことなく背を向けた。
「え、でも――」
翔太が演習場と先生を交互に見る。
「でも、じゃない。全員無事なんだから、もうここにいる理由はないだろ」
先生は歩きながら、こちらを振り返る。
「ほら、行け」
考えてみれば当然だった。
九条という上級生が何をするつもりなのかは分からない。
でも。
きっと先生にとって大事なことは、俺たちを次の危険に晒さないことだ。
俺たちは先生に促され、歩き始めた。
「……誰なんだろ」
千咲が歩きながら小さく呟く。
「知らない」
「九条って呼ばれてたよな」
翔太は何度も後ろを振り返っている。
「前見て歩けよ、転ぶぞ」
「いや、気になりますって!」
そう言いながら、また振り向く。
つられて、俺も一度だけ後ろを見た。
九条先輩が、ゆっくりと片手を上げたところだった。
優しい風に頬を撫でられた気がした。
千咲は自分の頬を触り、春も何かを感じた様子で瞬きを繰り返している。
翔太は気づいていない様子だった。
俺たちはそのまま歩いていく。
翔太もようやく前に向き直った。
次の瞬間。
ゴオッ――!
背後から、巨大な音。
「な、なに!?」
千咲がびくりと体を震わせて振り返る。
俺も足を止めかけた。
「気にすんな。歩け」
前から上里先生の声が飛ぶ。
でも、少し見るくらいならいいだろう。
歩きながらだったら。
そう思って、止まらずに振り返る。
そして、目を疑った。
「……え?」
春が小さな声を漏らす。
俺は言葉が出なかった。
市街地演習場の中に、巨大な竜巻が立ち上がっていた。
建物の何倍も高い。
何棟もの家屋を丸ごと包み込めるほどの、巨大な風の柱。
「うっわ……」
翔太は、歩きながら口をぽかんと開けている。
そして、足元の段差に足を取られてつまずいた。
それでも、また振り向いた。
俺たちの視線の先では、見たこともないような大竜巻が唸りをあげていた。
「……すごいコントロール」
千咲が自分の髪へ触れる。
言われてみれば、たしかにその通りだ。
遠ざかっているとはいえ、あの規模の竜巻がすぐ後ろにある。
なのに、俺たちの制服は、ほんの少し風に揺れているだけだった。
ほとんど何も感じない。
「前見ろよ、転ぶぞ」
上里先生に怒られながら。
それでも、何度も後ろを見てしまう。
竜巻に飲み込まれて、崩れかけていた家が浮いていた。
「…………は?」
翔太の足が止まる。
その背中に春が激突してよろける。
「あ、わり」
「高峰、危ねえから止まるなって言ってるだろ」
呆れたような先生の声。
ふと前にいる先生を見ると、こちらを振り返らないまま高峰に声を飛ばしている。
「だって先生!家浮いてる!」
「見りゃ分かる!」
先生は振り返りもしない。
一歩、また一歩と俺たちは演習場から遠ざかっていく。
でも、まだ見える。
一棟だけじゃない。
大きく傾いていた住宅。
半分崩れていた建物。
外れかけた屋根。
折れた柱。
巨大な壁材。
路上に散らばっていた瓦礫。
それらが、次々と空へ持ち上げられていく。
街が浮いている。
そんなふうに見えた。
何棟分もの建材が、巨大な竜巻の中にある。
千咲は名残惜しそうに一度振り返ったあと、前を向いた。
翔太も先生に何度か注意され、ようやく歩くことに集中し始める。
その中で、春だけは。
何度も後ろを振り返っていた。
「春」
俺が声をかける。
春は前を向く。
けれど、少し歩くとまた振り返る。
遠くなっていく市街地演習場。
そこに立つ、一人の上級生。
巨大な竜巻。
そして、その中に浮かぶ家屋。
「…………」
春の目が離れない。
歩みも遅い。
曲がり角が近づく。
あと少しで、演習場が見えなくなる。
春がもう一度だけ振り返った。
ちょうど、一番大きな三階建ての模擬住宅が、ゆっくりと空へ持ち上がるところだった。
俺たちはそのまま角を曲がった。
春はしばらく何も言わなかった。
◇ ◇
教室へ戻ってからも、当然のようにその話で持ちきりだった。
「いや、絶対おかしいって!」
自分の席にも座らず、翔太が興奮した様子で両手を広げる。
「家何個浮いてた!?五個!?十個!?」
「そんな数えてないよ」
千咲は苦笑しながら椅子へ座る。
「というか家だけじゃなかったよね。瓦礫も全部浮いてたし」
「そう!それ!」
翔太が机を叩く。
「しかも俺らのところ全然風吹いてなかったぞ!」
「そこが一番おかしくない?」
美月も会話へ加わってきた。
あれだけの巨大な竜巻がすぐ後ろにあった。
なのに、俺たちのところには、ほとんど風が届いていなかった。
「相当細かくコントロールしてたんじゃない?」
千咲が自分の手を見ながら考える。
「千咲でも無理?」
翔太が聞く。
「なんで私に聞くの?」
「制御上手いじゃん」
千咲はすぐに両手を振った。
「あんなのと比べないでよ。できる気しない」
珍しく即答だった。
それくらい異次元だった。
「ていうか、誰だったんだ?」
大地が近くの机へ腰を預ける。
「九条って呼ばれてたよな」
「三年?」
「たぶん」
好き勝手に推測が飛び交う。
すると。
「九条先輩知らないの?」
近くにいた沙月が不思議そうにこちらを見た。
翔太が勢いよく振り返る。
「知ってんの!?」
「普通に有名人」
「何してる人?」
「生徒会長だよ」
一瞬、俺たちの間が静かになった。
「生徒会長?」
千咲が聞き返す。
「三年の九条綾人先輩。入学式でも登壇してたよ」
千咲は少し考えてから、「あー!」と大きく頷いた。
「いたっけ?」
言ってから、少し後悔した。
隣から千咲の冷たい視線を感じる。
「まもるん、寝てたの?」
「起きてたよ」
「じゃあ覚えてるでしょ。在校生代表で挨拶してたよ」
「覚えてない」
翔太はそんな俺たちを無視して、まだ興奮したまま話を続けている。
「生徒会長ってあんな強いの!?」
「生徒会長だから強いってことじゃないでしょ」
美月が呆れたように笑う。
「でも、あの人は別格って聞いたことある」
「マジで?」
「三年生最強だって」
「やっぱり!」
翔太がなぜか嬉しそうにしている。
「俺も三年になったらあれくらい――」
「翔太、雷だから竜巻は無理だよ」
修也が遮った。
「そういう意味じゃないって!」
教室に笑い声が広がる。
いつもの空気が、少しずつ戻ってくる。
俺も笑いながら、自分の席へ戻った。
そこで、ふと気づく。
春は視線を落として、その先でゆっくりと右手を開いたり閉じたりしていた。
「春?」
声をかけると、少し遅れて顔を上げる。
「……ん?」
「どうかした?」
「ううん」
春は小さく首を振った。
「何でもないよ」
それから、少し困ったように笑った。
そして、再び視線を落とす。
「…………」
そんな春の様子を見ながら、俺は数日前の昼休みを思い出していた。
一番強い属性は何か、という話になり、その場にいたみんなは、なんだかんだと言いながらも自属性を推していた。
でも、春だけは違った。
『一番強いって言われると、風ではないかな、って』
春はそう言っていた。
風そのものを、あまり強い属性だと思っていないように見えた。
けれど、今日。
俺たちは見た。
風属性の圧倒的な出力。
信じられないほど細やかな制御。
その両方を。
「授業始めるぞー」
教材を取りに一度教室を離れていた上里先生が、再び戻ってくる。
みんなは名残惜しそうにしながらも各自の席へ戻っていく。
そんな中、珍しく教科書もノートも出さないままで。
春はずっと自分の右手を見つめていた。




