1-6:邪神イグノートゥス 下
「同胞の臭いがする……貴方、何者ですか?」
こちらを訝しむように見つめる司祭を一旦無視して、部屋の中に視線を回す。目的の物があるのかどうか――しかし、自分はそれを見たことも無いので、判別することができない。
『おい、アオートの胚とやらはあるか?』
『我輩の視覚では、この依り代の見える範囲しか認知できん……だが、気配は感じる。この空間に間違いなくあるぞ』
『場所は?』
『どこだと思うね?』
脳裏に響く声は楽しげだ。こういう場合はどこにあるかなど相場は決まっている。教祖が持っているか、その背後にある怪しげな祭壇の上にでも置いてあるか、どちらかに違いない。
祭壇にあるのなら、奪って逃げることも可能かもしれない――そう思いながら正面を睨んでいると、司祭は咳ばらいを一つしてから、不機嫌そうにこちらを睨んだ。
「もう一度聞きましょう。貴方が使役しているのはイグノートゥスの力だ。一種類ならば神器を使っていると思えば納得できますが、複数の力を使っている……貴方はどうやってそれを使っているのですか?」
「教えてやってもいいが……答えは高くつくぞ!」
パンタグリュエルを発動したなら、決断はさっさとしなければならない。それなら力押ししてしまうに限る。右手に持った剣を両手で握りなおし、男の方へ向けて駆けだす。目掛けるは心臓。まだ生物として真っ当であるのならそれで倒せるし、そうでなかったとしても多くの場合にそれはそこに宿る。
当然、相手方も手をこまねいて待ってくれるわけではない。司祭風の衣装の下から、また幾筋もの黒い触手が飛び出してきた。改めてみると、触手だと思っていたそれは、その先端に牙を持った口がある――こいつは蚯蚓だ。それが大きく口をあけながら、猛烈な勢いでこちらへ襲い掛かってくる。
とはいえ、対応できない量と速度ではない。襲い掛かってくる蚯蚓の束の僅かな隙間を縫って、ほとんど速度を落とさずに前進を続ける。
そして祭壇の手前で大きく踏み込み、数段の高さに居る司祭風の男を目掛けて剣を突き出しながら跳躍する。雄たけびを上げながら一気に肉薄し、男の胸に鋭利な先端を突き刺す――が、いつもの手応えはない。肉を裂き、臓物を貫く感触は確かに両手に戻ってくるのだが、肝心のどす黒い何かを貫く感触が無いのだ。
相手もこちらの動きを読んでいたのか、目の前の男はニヤリと笑い――そして口が裂けんばかりに開いたかと思うと、そこからまた先端の鋭い触手が一気に射出される。それ自体は細く、身をよじることでなんとか躱すことはでき、その勢いのまま剣を力任せに横薙ぎにして、相手の胴を胸から両断するが、それでも相手は倒れることはなかった。
同時に、祭壇の様子が明らかになる。男の背後には台が存在する。セクトの祭場にはよくある、供物などをささげるための石造りの台だが――そこに十歳かそこらの女の子が一人、目を瞑ったまま横たわっているのだ。
ともかく、ここまで近づいたのだから、この場でさっさと仕留めなければ。そう思って剣を握りなおし、次の一撃のために足を捌こうとした瞬間に違和感を覚える。足裏に本来なら返ってくるべき反動がない――姿勢を崩しながら下を一瞥すると、石でできたはずの祭壇の一部が泥のように溶けているのが見えた。
「……ハルトさん!」
名前を呼ばれるのと同時に、背後で轟音が鳴り響く。恐らく、背後から迫ってきていた触手を――男に接近するときに避けたやつだ――覚醒者の女が切り倒してくれたのだろう。
だが、攻撃は何も後ろからだけではない。司祭が右の拳を突き出してくる。足が捌けない状態なので、それを躱すことはできず、寸での所で刀身で受ける。すさまじい膂力で突き出されたそれに対し、こちらは踏ん張ることもできず、そのまま背後に大きく弾き飛ばされてしまう。
仕切り直しか。いや、それより悪いか。祭壇から離れたところで着地して正面を見ると、男の体が瘴気を纏い、そしてそれを急速に身体へと取り込み始めている。衣服の下が大きく蠢き始めたかと思うと、先ほど自分が切りつけた傷口から細い管が無数に生え始め、それらが外側から男の体を喰らい尽くし――そして最終的に、無数の黒い蚯蚓が突き出る異形へと変貌した。
「ちっ……浅かったか!」
『半神半人になる隙を与えてしまったようだな……君、どうするつもりだ?』
脳裏に響く名、邪神の力を宿す異形、デミゴッド。多くの場合、イグノートゥスは信徒の内の一人を腹心として現世において信徒を増やそうとする。その腹心はセクトを護るための最後の砦でもある――セクトが危機に瀕した時、イグノートゥスは教祖を依り代にし、その力を顕在化させる。それこそが半神半人の怪異、デミゴッドである。
イグノートゥスの本体は現世には存在しないので滅することはできないが、デミゴッドは物理的な存在であり、倒すことは可能だ。ただし、神の力を取り込んだそれは、すさまじいまでの再生能力と強力な能力とを有する。能力次第では、それは現世に現れる災禍と等しく、本来なら軍隊をもって鎮めるほどの犠牲と労力を払わなければ、倒し切ることすら難しい脅威となる。
「人間ガ……キサマらこそ、こノ姿を見たその代償を、その命で払ってもらうこととシよう!」
先ほどの丁寧な口調は鳴りを潜めている。この口調がイグノートゥス由来のものなのか、教祖の本性なのか、どちらかは分からないが――ともかく異形の化け物が祭壇から飛び降り、自分と女の前へと立ちはだかった。
そして、すぐさま空間には所狭しと言わんばかりに無数の黒い筋が暴れ始める。その速度はそれこそ音にも近いのか、はたまたそれを超えているのか、すさまじい轟音を鳴らしている――細大様々な蚯蚓が、それぞれ別の意志でも持つかのように不規則に、そして乱雑に暴れまわっているのだ。
恐ろしいのはその威力だけではない。壁際で息を潜めていた原典派の男の一人が蚯蚓に絡みつかれ、絶叫を上げている。そして、その体は徐々に石へと変質し、完全に無機物になった瞬間に、巻き付いている黒い筋がそれを粉々にしてしまった。こいつの場合は、大本が蚯蚓の姿を持つイグノートゥスであり、その能力はアイツが予想した通り石や大地を操る、といったところなのだろう。
一応、自分も悠長に観察しているわけではない。こちらに襲い来る攻撃は、剣やイクストルの爪で弾いたりしている――のだが、自分にある程度の余裕がある最大の理由は、女が自分の正面に躍り出て、攻撃の大部分を防いでくれているからだ。
やはりこの女、恐ろしく強い。驟雨のごとく、それも不規則に叩きつけられる攻撃を、巨大な鎌で切り落としている。あれだけの得物を瞬時に振り回しているだけでなく、瞬時に相手の攻撃を見切って、とくに自分たちに当たりそうなものだけを選別し、華麗にさばいている。それこそ、パンタグリュエルの強化がなければ、女の動きを目で追うことなど不可能であるほど、その速度はすさまじかった。
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