1-42:ジョナサン・ミラー 下
「……先輩! やっぱりここにいたんですね!」
背後から聞こえた声に振り返ると、女が一人、机に突っ伏すミラーを見下ろすように立っていた。眼鏡をかけた、そばかすの目立つ化粧っ気のない顔に怒りの色を浮かべている――別に女だからといって警戒していなかったというわけでなく、単純にその所作が堅気らしかったからだ。本当にヤバイ奴なら、音もなくこちらに忍び寄ってくるはずであり、こうも雑に近づいてくるとなれば素人だろうと確信していたのである。
先輩という呼び方から察するに、彼女は新聞社の後輩社員といったところか。そんな風に推察しながら視線を机に戻すと、ミラーは観念したように座りなおし、悠長にグラスにもう一杯酒を注ぎ始めていた。
「ちっ……見つかったか」
「見つかったか、じゃないですよ……って、お酒くさぁ! この短時間でどれだけ飲んだんですか!?」
「アップル、お前な……酒場が酒臭いのは当たり前。八百屋に行って青臭いって言うやつがあるか?」
「それは、そうかもですけど……っと、それどころじゃないです! 明日の朝刊に載せる見出し、まだ先輩の分だけ完成してないんですよ!?」
「ちょっと良い文章が思い浮かばなくてな。気分転換のために休憩してたんだ……それに、転勤が決まってる奴にそこまで働かせるっていうのもどうかと思うんだがね」
「実際に転勤するその日まで、先輩には働いてもらうんですから……それに、私は先輩の転勤、納得してないですよ。いろいろ学びたいこともたくさんありますし……」
「ふぅ、やれやれ。まぁちょっと待てって、こいつを空けてからだな……」
『……君、君』
アップルと呼ばれた女とミラーとの会話の中にノイズが入る。最初、二人の声がやかましかったので空耳かと思ったが、もう一度と聞こえた『君』という声は、確かに外からでなく、脳裏に響いた。間違いない、シュライクのテレパシーである。
『……どうした? まさか……』
『あぁ……残念ながら事件だよ、君。一応断っておくと、明日の朝刊にも載らないやつだ』
それだけ聞いて、自分はすぐさま席を立った。ポケットに入っていた銀貨を乱雑に取り出して、それを男の方に投げ出す。
「ミラー、急用が入った! 足りなかったら悪いが付けといてくれ!」
「お、お? どうした……って、おい!」
男の言葉を最後まで聞かずに階段を駆け上がり、ガス灯が煌めく夜の街へと繰り出す。この辺りから住宅街までは鉄道で三駅ほどだが、ダイヤ的に本数はそこまで多くない。特に夜間は運行本数は減っている――それなら走って戻った方が速いだろう。
ミラーに会いに行くのに、今回はシュライクを、正確には木偶人形をアパートに置いて来ていた。その意図は、何かあったときにすぐに伝達できるようにするためだったのだが――最初に煉獄の小屋で襲撃されて以来、他の邪神や眷属たちからの追撃はなかったため、少し警戒が薄れていたのもあった。
『シュライク、状況は?』
『その前に一つ。恐らく、君は眷属どもが来たと思っているだろうが……今回に関しては別口だ』
『……原典派か?』
『あぁ、その通り……小娘はもちろん、女も回収しに来たようだな』
可能性としては考えていた。原典派が自分たちのことに関してどれだけ情報を持っているかは分からないが、ひとまず確実に一つだけいえることがある。それは、アザレアを放置はできない、という点である。
回収しに来るのか、処断しに来るのか、どちらの対応を取るのかまでは予想していなかったが、覚醒者という原典派の懐刀を、いつまでも放置するわけにはいかないことは間違いないのだ。
ただ、こちらに関しても、実に二週間ほど特に追撃がなかったので、予想外に捨て置かれていたのでは、などと楽観視してしまっていた部分もある。それがわざわざ自分が外出しているときでなくていいのに――いやむしろ、自分が外出しているときだからこそ狙われてしまったのか。そう考えれば迂闊だったともいえる。
『……それで状況だが、ひとまず悪くはない。雑魚どもは私が既に片づけたし、小娘も無事だ。新手の覚醒者が現れたが、それについては女がすぐに片づけてくれるだろう。
だが、我輩の予測でいえば、ここからが……ぬぅ!?』
『……おい、シュライク!? 何があった!?』
シュライクから短くあがった驚きの声の後は、向こうからは何も聞こえてこなくなってしまった。こちらが必死に問いかけても、聞こえてくるのは夜の街の雑踏だけである。
シュライクが言いかけていたことの先を予測するならこうだ。「相手方も相応の準備をしてきているだろうからここからが本番である」か「この混乱に乗じて他の勢力が駆け付けてくるやもしれぬ」と――このどちらか片方だけが当たっていればまだマシで、最悪の場合は両方とも当たっている可能性がある。
ともかく、自分にできることは一秒でも早く戻ることだけだ。そう思いながら、ただ我武者羅に、夜の街を走り抜けるのだった。




