1-40:ジョナサン・ミラー 上
出かけるまでの間、フィオナは部屋から出てこなかった。昨日の件がそれ程ショックだったのか、それとも自分と話さなければならない状況が気まずかったのか。ただ、夕刻になって出かける前になったとき、ようやっと個室から顔を出した。
「……ハルト、昨日はごめんなさい。あと、庇ってくれてありがとう」
「お、礼は言えるんだな。結構結構……いい子いい子してやろうか?」
「いらない……絶対いらない」
「憎まれ口を叩けるなら大丈夫だな。俺の方もかすり傷で、もう痛みもない。気にするな。それじゃ、俺は……」
「あっ……ちょっとだけ、待って」
椅子から立ち上がって玄関へ向かう最中、フィオナの控えめな声に足を止める。振り返って見ると、所在なさげに縮こまっている――ただでさえ小さな肩が、余計に小さく見えるほどだ。
「謝りたいのは、庇ってもらったことだけじゃない。前に出すぎて、無茶したことも、ごめんなさい……それで、次も連れて行ってほしい」
「……あぁ、構わないさ」
「ほんと?」
「本当だ。折角いい武器を買ったんだ、頑張ってもらわなきゃ困る……ゆっくりでも頑張ってくれればいい」
「ほんとにほんと?」
「本当に本当だ。疑り深い奴だな……大丈夫だ、ちゃんと連れて行ってやる。約束だ」
「うん、約束。それじゃあ、行ってらっしゃい。お土産は甘いものがイイ」
「覚えてたらな」
少女がいつもの生意気な調子を少し取り戻したのを確認し、玄関から外へと出る。営業時間的に、帰るころには店なども開いていないだろうが――飲み先の店で何か包んでもらうくらいはできるかもしれない。
待ち合わせの場所は、商業区の一画にある酒場だ。それも、ビジネス街のほど近い部分にある。デスクワークをしている連中が、帰りに一杯ひっかける需要を狙った立地なのだろう。旧市街地の細い路地の軒先で、仕事帰りの背広姿たちが酒を飲みながらはしゃいでいる姿を横目に、いつもの待ち合わせ場所へと向かう。
地下への階段を降りて扉を開き、外と比べて落ち着いた雰囲気の店内に足を踏み入れる。中は蒸気機関でも動いているのかと思うほど空気が白濁している――地下だというのに、この店には喫煙者が、それも生粋のヘビースモーカーばかりが集まっているのだ。
そしてその中でも、特にここの空気を悪くしているであろう男のもとへ――奴の特等席、仕切りで区切られた店の一番奥のテーブル席だ――移動すると、そこにはよれよれのシャツを着た白髪交じりの中年が一人、既に灰皿に何本もの吸い殻を溜めつつ、ちょうど次の一本にライターで火を灯しているところだった。
「煙草に酒。食い物はつまみだけ。そんなんじゃ早死にするぞ、ミラー」
「ほっとけ。これが男の動力源なんだよ」
男は口から煙を吐き出しながら、おもむろに度の高そうな酒が入っているグラスを煽る。
「それに、早死に結構。オレのモットーは、太く短く清く正しくだ」
「少なくとも、清さからはほど遠いな……せめて髭くらい剃ってから言ってくれ」
そう言いながら、男の対面の椅子に腰掛ける。ミラー、ジョナサン・ミラー。近くのビジネス街の新聞社に勤める記者だ。この男と知り合ったのは、本当に偶然だった。同時に、ある種の恩人でもある――この塩の大地に潜入できたのは、コイツの尽力があってからこそだからだ。
出会いは大陸側であり、ミラーに声を掛けられた。記者の勘で自分が元鎖の魔術師だと嗅ぎつけ、それで声を掛けてきたらしい。また、ミラーは様々な伝手をもっており、それ故に裏社会とも顔が効く。それで、自分の言える範囲で虚空の鎖の情報などを共有する代わりに、偽造の身分証を作ってもらい、それを使って自分は塩の大地に上陸したのだ。
また、この土地での生活についての様々な手配などを協力してくれたのもコイツだ。帝国のルールなどは全く知らなかった自分が、最低限は人間らしい生活ができているのは、まさしくコイツのおかげである。
その代わりに、こちらで得た煉獄や帝国の情報を共有する、という見返りを提示することで成り立っていた関係。つまり、イリスと並び、この地で活動するための数少ない協力者であったのだ。
あった、というのは文字通りの意味であり、近々この男の協力は得られなくなる。今日はその件で話をしに来た。こちらも注文していた飲み物を一口煽ってから本題に入ることにする。




