1-28:路地裏の攻防 下
「デミゴッドに変態するつもりなのね……アナタは後ろに逃げて。もう、背後から気配は感じないから、大丈夫だと思うわ」
「でも、アザレアはどうするの?」
「アナタが逃げ切るまで、アイツの足止めをするの!」
アザレアがそう言い切ると、彼女の後ろの肉塊が一層蠢き、そこから一斉に舌のような何かが勢いよく噴き出し始める。アザレアが一歩前に出て「さぁ、逃げて!」と言いながら、巨大な鎌を回転させながらそれを切り落としていく。
デミゴッドが出てきたとなったら、確かに最善の策は逃げることだろう。アレを倒し切ることはできないと聞かされている。もちろん、アレを再生不能なレベルの肉片になるまで刻めば――想像するだけで気持ち悪いが――イグノートゥスは依り代を失って力を喪失するだろうが、それをたったの二人、それも碌な武器を持たない自分では無理な話だろう。
大丈夫、アザレアはすごく強いから。私が安全なところまで逃げてからでも、アザレアもきちんと逃げ切れる。そう判断して、来た道の方へと振り返って、力の限りに走り始める。
しかし、今度は前から微かに禍々しい気配を感じる。またイグノートゥスが現れたのか。挟まれた、そう思って足を止めるしかなかった。すると、正面からアザレアと一緒にいた男が姿を現し――彼女と違って疲労困憊といった様子で、辛そうに表情を歪めている――自分に向けて手を差し出してきた。
「……俺の銃、返してくれないか?」
「そんなこと言ってる場合!? アザレアが……」
「だから、銃を返してくれ。大丈夫だ、なんとかするから」
有無を言わさぬ調子に少し押されながらも、言われたとおりに銃を返すことにする。男はそれを受け取って、自分が先ほどしたのと同じようにチャンバー内を確認してから、そのまますぐに正面に銃身を向けた。
「シュライク、やれるな?」
「神器を使わないのなら、邪神のこもるコアをしっかり狙ってもらいたいところだね」
「アザレア、邪神に弾丸が当たるよう、そいつの核を露わにしてくれ……中心にある」
「分かりました!」
「深淵の縁より目覚めよ……」
男が詠唱を始めると同時に、アザレアの巨大な鎌が巨大な肉塊を真っ二つに両断した。その中央に、確かに蠢く黒い部分がある――あそこにイグノートゥスが宿っているのだろう。そして男がその核を狙って引き金を引くと、漆黒の弾丸が空を裂き、これまた同じくらい深い闇の中にそれは吸い込まれていく。
直後、黒い影が渦より現れ、それが手の先に逃げようともがくなにかを捕まえ、地面に叩きつける。それに合わせるよう、宿主を失った肉の塊は急速に炭化して崩れ去った。
「ところで君、こいつを魔術書に封印するつもりかね? こんな妖怪垢舐みたいな奴、私は同居を遠慮したいのだが」
「そのアカナメなんだかは知らないが、使えないやつだったら無理に封印する必要もない。ただ、封印しないで倒せるのか?」
「もはやコイツは依り代を失った。放っておけば、そのうち霧散するだろうさ」
「それじゃあ、戻っていいぞ……ふぅ」
男は黒い影と会話しながら銃をホルスターに戻し、脂汗を顔ににじませながら壁に身を預けた。彼の住居に戻るまでも具合が悪そうにしていたから、結構無理して追ってきてくれたのかもしれない。
しかし、私には私の居場所がある。イグノートゥスに干渉できる力というのには少し興味はあるが、今は自分のことが先決である。
「あの、助けてくれたことには、お礼を言う……ありがとう。でも、私は帰らなきゃいけないところがあるの、それじゃあ……へぶぅ!」
自分の口から変な声が漏れたのは、逃げようとしたら足に何かが絡まっており、思いっきりこけてしまったせいだ。しかも、正面から石畳にぶつかった。痛む体を何とか起こし、何が起こったのか確認すると、何やら自分の足に黒い糸のようなものが巻き付いており――その糸は男の手から伸びており、彼はそれを強く握りしめていた。
「悪いが、お前さんの行動パターンはお見通しなんだ。痛い思いをしたのは自業自得だと思って諦めてくれ……それで、別に俺たちはお前を取って食おうってわけじゃない。建設的な話し合いをしたいだけだ」
「あ、あの、私、帰らなきゃならなくて……ぐぅ……」
痛みで呻くのと同時に、口から出たのと同じような音が、自分のお腹から聞こえ始める。緊張が解けてきたせいで、身体が空腹を思い出してしまったらしい。確かにこの状況では、もうあまり長く歩けそうにもない。
「だから、飯でも食いながら話し合おうっていうんだ……アザレア」
男はそれだけ言って振り返り、壁を杖代わりとでも言わんばかりにゆっくりと歩き始めた。直後、肩ががっしりと掴まれ――振り返ると、そこにはちょっと申し訳なさそうに苦笑いを浮かべるアザレアの顔と、男のポケットに吸い込まれるように入っていく黒い影と、宙に霧散していく邪神とが視界に入ったのだった。




