1-19:アザレア 下
「何より……ここでどんだけ突っぱねても、なんだか付き纏われそうだしな」
「えっと……? それって、どういう……?」
「俺の根負けだってことだ。アンタを連れて行けば、役に立ちそうなのも間違いないし」
「そ、それじゃあ……お側に置いてくださるのですね!? ありがとうございます!」
先ほどまで泣き出しそうだった女は、ガッと身を乗り出し、こちらの右手を両手で取って、その顔に大輪の花を咲かせた。突然手を取られた驚きより、身体を急に動かされたことによる痛みが勝り、思わずうめき声を上げてしまう。
「あっ、ごめんなさい! 私、嬉しくなってつい……はっ!」
女は掴んでいた手をパッと離し、そのまま手で口を塞いで、中腰のまま立ち上がり、こそこそと移動を始める。背後を振り向くと、部屋の角で女はびくっと身体を震わせ、また中腰で立ち上がって――なお、相変わらず口は両手で塞いでいる――また別の隅に移動したようだった。
一瞬、こいつが何をしているのか訳が分からなかったのだが、なるほど、先ほど視界に入らないというのを忠実に守ろうとしているのか。それでも、背中に穴が空くんじゃないかと思うほどの視線を感じている状態では、こちらも所在ない。
「いや……別に、そんなこそこそしなくていいし、普通にしゃべってくれて問題ないぞ?」
「で、でも、ご迷惑じゃ……」
「まぁ、アンタのクソデカ感情に振り回されている感は否めないが……後ろでじろじろ見られている方が気になるからな」
「そ、それでは失礼しまして……」
先ほど座っていた居場所を指さすと、女はまたこそこそとしながら元いた場所に収まり、所在なさげに小さく縮こまった。
「それで、アンタ……いや、アザレアと呼んだ方が良いか。細かい事情は、また折をみて話す。まずは煉獄から脱出して、街に戻ること。そして、その間にそっちの女の子を守ることを依頼したい」
「は、はい、お任せください……でも、その、アザレアって?」
「うん? そう言っていたと思うんだが……アンタの名前じゃないのか?」
冷静に考えれば、コイツは元々は特殊工作員のような立場だ。外で安易に自らの素性を明かすことなどしないかもしれない。そう考えれば、アザレアというのはコードネームか何かなのかも――いや、それにしてもおかしい。もしコードネームだったとしても、自分で使っていたものなら馴染みがあるものだと思うのだが。
「えぇっと、その、それが……実は、記憶が曖昧でして……」
「はぁ? 大丈夫なのか?」
「はい! 心配には及びません! 私のことなど大したことではありませんので!」
「いや、そういう問題じゃないだろう……まったくなにも思い出せないのか?」
「えぇっと、割と直近の出来事とか、知識的なことは覚えているのですが……なんというか、自分のことに関する記憶が、すっぽりと抜け落ちてしまっているようで。それで、自分の名前も分からない体たらくでございまして」
それは大丈夫でないと思うが。記憶を失うというのは、自分を構成している大事なものが欠落するということを意味する。自らがここに存在している理由が分からなくなるなど、自分には耐えられそうもない。
逆を言えば、いたずらに自分が彼女のそれを奪ってしまったわけであるし、また過去のことなど大したことではないと思えてしまうような契約というのも、改めて考えると恐ろしい。最後に執着していたことが一切抜け落ちても、彼女曰く「大したことではない」という思考になってしまうのだから。
『ふむ……もしかすると、発狂している最中で無理矢理に眷属としての契約をしたことで、記憶障害を引き起こしているのかもしれないな。時間が経てば、そのうち戻るかもしれん』
シュライクの考察が脳裏に響く傍ら、女は「アザレア、アザレア」と小さな声で反芻している。あたかも失った記憶に対して語りかけるように――ややあってから、女は何か得心したように頷き、改めてこちらに向き直った。
「アザレアって響き、なんだかとても懐かしいんです。なので良かったら、私のことはアザレアと呼んでくれませんか?」
「アンタが良いならな。呼び名が無いのも不便だろうし……それじゃあ、よろしく頼むぞ、アザレア」
「はい! 命に代えましても、ご主人様のお役に立ってみせます!」
「あぁ……それで、そのご主人様っていうのはなしにしないか?」
「えっ? ご主人様は私のご主人様で……はっ、やはり私なんぞ、見るのも嫌になりましたか!?」
「そうじゃないそうじゃない。さっきのことは忘れてくれ……単純に呼び方の問題だ。俺みたいな見た目のやつが外で誰かにご主人様なんて言わせているところを見られたら、特殊な性癖な奴だって勘違いされるだろう?」
「はぁ、それでしたら、その、恐れ多くもお名前で……は、ハル、はるぅ……はぅうううううう!」
最初に会った時など、普通に名前で呼んでいたはずだが、何が今さら恥ずかしいというのだろうか。しかし、相変わらずちょっとしたことで顔を真っ赤にしながらエキサイトしてしまうので、コイツと付き合うのは骨が折れそうだ。
ふと、女の変な鳴き声の合間に別の音が混じる。どうやら、アザレアの奇声でようやっと少女が目覚めたようだ。少女は目元をごしごしとこすりながら、きょろきょろと辺りを見回す。一度こっちを見て首を傾げ、そのままアザレアの方を見て向き直ると、硬直したように首の動きが止まった。
「あっ、目が覚めたのね。アナタ、お名前は?」
「うぅん……バタっ」
「えっ、どうしたの!? 大丈夫!?」
倒れた少女の方へとアザレアがすぐに向かい、介抱を始めたようだ。しかし、口で「バタっ」などというやつ、実は狸寝入りなんじゃなかろうか? まぁ、それもあまりに子供だましすぎて、ばかばかしいとも思うが――しかしアザレアの声に全く反応がないところを見るに、どうやら本当に気絶しているらしかった。
『本当にどうしたんだ? 別に外傷はないし、さっきの瘴気に関しては、問題ないと言っていたが……』
『我輩はその小娘でないので理由は分からんよ。ただまぁ、推察するなら……人間界における一般的な常識の範疇で考えれば、目が覚めた瞬間に返り血をふんだんに浴びたままになっている人間が近くにいれば、失神の一つでもするんじゃないかね?』
確かに、それはそうかもしれない。目が覚めた瞬間に返り血をふんだんに浴びている女が目の前にいたら、自分だってビビってしまうだろう。いや、ある意味情緒が不安定過ぎて、返り血に関係なく怖くはあるのだが。
とにもかくにも、男一人に邪神一柱という所帯に素性の知れない女二人が加わるという、もはや訳の分からない関係性が、この日、この場所から始まったのであった。
胚の少女、いったん起床。本格始動まであと7話。
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