1-17:アザレア 上
襲撃の後は、自分にとってさらなる困難が待ち構えていた。猿型の眷属どもを蹴散らした女が、急に半狂乱になって謝り始めたのである。
「ご主人様を危険な目に晒してしまい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「いや、助けてくれたんだから、そう自分を卑下しないでくれ……それでその、ご主人様ってのは何だ?」
「えっ? ご主人様は私のご主人様なので、つまるところご主人様なのですが……?」
こちらの質問に対し、先ほどまでの卑屈さは一気に吹き飛び、女はキョトンとした表情を浮かべる。それこそ、「何を当たり前のことを聞いているんです?」とでも言わんばかりだ。むしろ、コイツの乱高下する情緒の方が心配になってくる。
『君、本当は分かっているのだろう? 先ほどの儀式が上手くいったので、この女は見事に君の眷属と化したのだと』
『いや、それは分かってるんだが……呼び方ってもんがあるだろう?』
『そのあたりは、我輩はその女でないので、何を考えているかなど分からんよ』
『それはそうだが……お前もなんで、わざわざポケットに隠れてるんだ?』
『コイツ、元々はセクトを狩るための改造人間だからな。別に依り代を壊されたとて痛くもかゆくもないが、無駄に攻撃されるのも面白くはないし、何より面倒だ』
確かに、その可能性もあり得るか――などと思っているうちに、戸外での女の「ごめんなさい」攻撃が再発した。さっさとお引き取り願いたい部分もあるのだが、一応命の恩人でもあるし、放っておいても話は進まなそうである。
そのためなんとか彼女を宥め、ひとまず屋内の適当な場所に腰掛けてもらう。ここまででも数分の時間を要した。
なお、凄まじい轟音が響いていたはずなのに、相も変わらず少女は眠りこけている。先の地下での戦闘でも起きなかったのだから、今さらかもしれないが――本当に起きるのか少々不安になってきたくらいである。
「それで……どうやって追ってきたんだ?」
「はい! ご主人様の匂いを辿ってきました!」
「に、臭い……」
そんなに強烈な臭いを残していたのか。そんな不安が脳裏をよぎり、思わず腕を鼻に近づけてしまう。そんなに臭いはしないと思うのだが。しかし、自分の体臭というのは気づきにくいものだともいうし、気づかないところで今までも悪臭を振りまいていたのかもしれない。
しかし、女の様子は嬉々としたもので、謎に得意げな笑みでこちらを見ているので、悪臭を放っているわけではなさそうだと自分を納得させることにする。彼女の身体能力を考えれば、もしかすると五感も相当に強化されており、わずかな臭いでも感知できるというだけかもしれない。
気を取り直して、この状況を片づけてしまわなければなるまい。察するに、自分の眷属にしてしまった彼女が、その圧倒的な身体能力をもって、意識を取り戻してすぐに急いで自分の後を追いかけてきた、というのが現状だろう。
とはいえ、やはり従者など持つ気はない。それこそ彼女が悪いわけではないし、シュライクの言うように「そんな中途半端な」という考えもあるが、それでも眷属にしたのは単純に、彼女に自由になって欲しかったからである。
「……ご主人様? どうかしましたか?」
「いや、なんでもない。それよりだな、助けてもらったところで悪いんだが、そのご主人様っていうのを止めにしないか?」
「は、はぁ……それでは、その、お名前で……は、はっ、ハル……ハル……と……はぁぁああああ!」
「すまん、何か壮絶に勘違いさせてしまったようだ。先ほど成立したばっかりの主従関係は即解散。つまり、もうついて来ないでくれと、そう言いたいんだ、俺は」
「えっ……?」
何やら勘違いでエキサイトしていた女の顔が、今度は一瞬で絶望色に染まる。本当に、恐ろしいほど情緒の安定しない女である。
「あの、危険な目にあわせてしまったことは、本当に申し訳ありませ……」
「だから、その件には感謝している。単純に、俺はアンタを従者にする気はないってことだ……まぁ、アンタからしてみれば納得できないかもしれないが、正気を失っていたところを救うには他に手段がなかったんだ。
それで、俺としては、アンタには自由の身になって欲しい。今まで、原典派の連中にこき使われて、命がけでセクトと戦ってきたわけだろう? それから解放されて、好きなことをして欲しくてだな……」
「私のやりたいこと、そのすべては、ご主人様にお仕えすることだけです!」
「それは、そう刷り込まれているだけだ。まぁ、刷り込んじまった俺がいうのもおかしな話だが……ただ、アンタのその気持ちは契約によって作られた偽物だ。
それにさっき、ぶつぶつ言ってたぞ? 約束だとか夢だとか……そっちの方が、本当は大切なものだったはずじゃないか?」
眷属にするなどという選択肢を取ったことでややこしいことになっているのは重々承知だが――今にして思い返せば、この女を救いたかった主たる理由はこれにあった。心を壊してなお、最後まで大切な何かを忘れまいという必死の抵抗をしている彼女に、共感を覚えたから。
自分にも果たさなければならないことがある。それは、自分の全てを賭してでもやり遂げなければならないことだから。そういったものが彼女にもあるのなら、それを果たして欲しいと思ったのだ。
同時に、彼女が自分に仕えたいなどという気持ちはまやかしに過ぎない。そんなものに拾った命を使ってほしくはないし、またそんな気持ちで側にいてほしいわけでもない。確かにこの女を使役できるのなら間違いなく戦力的にはプラスになる部分があるのも理解しているが、嘘の気持ちに従ってまでついて来て欲しいとは全然思えない。
それに、何より――彼女を連れて行く気のない、むしろ連れて行けない理由がある。それを心の中で言語化する前に、沈み切った表情をしている女の方から「その……」と控えめな声が上がった。
胚の少女、いったん起床まであと2話。




