2-80:真の王女が生まれた日 下
「……後は、お主らだけじゃな。思い残すことはないか?」
一応自分からもあるのだが、パントエールが聞きたいことがあるらしく、「ねぇ、貴女」と問い始める。
「なぜ貴女は、夢の王国を作って、そしてそれを手放したの?」
仮面の老婆は顔を上げて空の方に視線をやった。そこには既に彷徨う魂はない――ただ、晴れ渡った青い空があるだけである。
「妾は邪神として信仰を集めることより、人を観察するのが好きじゃった。人々が享楽に耽るさまを見るのが楽しくてな。それ故に、人々に望みの世界をくれてやろうと思った……じゃが、それは無意味な行いじゃった。それが破棄した理由じゃ」
「夢の世界が、人のためにならなかった……?」
老婆はそこで少女の方へと視線を戻し、小さく、ゆっくりと頷く。
「いかなる願望をも叶える夢の国を訪れた人々は、最初の内こそ喜び、様々な妄想を実現させ、享楽に耽った。じゃが、それにも次第に飽きが来る。そうなると、夢の世界の住人は別の願いを実現させ、何とか新たな刺激を受けようとする。
それでも、人の想像力には限界がある。新たな経験や他人との接点がなければ、妄想も次第に尽きてくる。その結果、何も考え出さなくなってしまい……最終的にこの国を訪れた者どもは全て廃人と化して、その命を終えてしまったのじゃ。
その結果を見て、妾は夢見の世界を破棄した。これ以上続けても、妾が見たかったものは見られんのでな」
彼女の話を聞いていると、やはりどうあっても人と邪神との感覚の違いがあるのだと思わされる。こいつは割と人間に対して友好的な分類なのだろうが、それでも多くの人々を廃人にして悪びれてもいないのだから、やはり人の倫理観は通用しないということなのだろう。
ともかく、老婆は言葉を一度切った後、自分たちの方へと向けて杖の先端をかざしてくる。すると、今度は自分たちの身体から淡い光が立ち上り始め、不思議な浮遊感が身体に纏わり始める――が、去る前に自分の方もコイツには用がある。
「ちょっと待ってくれ。アンタが良ければなんだが、一緒に来てくれないか?」
そう言うと、老婆は一度杖を降ろしてから、ゆっくりと首を横に振った。
「妾自身に大した力などありはせぬ……せいぜい、眠気を誘う霧を出せる程度でしょう。それとも、人々が夢灯アヴァロンと名付けた神器をお使いになるつもりか?」
「いいや、それは俺の性に合ってないからな。単純に、俺はイグノートゥスと契約をして、その力を使わせてもらってるんだ……聞き分けのない奴はシュライクを通じて使役しているが、能動的に協力してくれるなら普通に一緒に来てほしいと思ってな。
来てくれる場合は、しばらくは魔術書の中にいてもらうことになるが、目的を果たしたら解放するよ」
「ふむ……断ると言ったら、百貌の王に無理矢理に捕らえられますかな?」
「いや、アンタの意思に任せる。ついてくる気がないっていうのなら、無理に縛ることはしない」
眠気を誘う霧程度と言っても、たとえば今回の工場のように、狭い範囲で一気に敵を無力化するにはかなり使えると思われる。そういう意味では契約できればプラスになると思うのだが、嫌がる相手を無理に連れて行くこともない。
数多くの人々を自らの願望のために弄んだ過去があるのかもしれないが、今は無害な一柱だ。イクストルと同じように、シュライクで縛らずにエヌの写本に入ってもらっても大丈夫だろう。
こちらの提案に対し、老婆は一度シュライクの方を見る。邪神共の界隈では百貌の王として有名らしいし、むしろ悪名高くて一緒にいたくない、くらいに思っているのかもしれないが――肝心のシュライクは「どっちでもいい」と言わんばかりにあくびをしている――杞憂であったようで、老婆は再びこちらへ向き直って、小さくではあるが頷いてくれた。
「百貌の王と共に行くというのは、少々気後れするが……良いじゃろう。お前さんがたの行く末にも興味はあるじゃて。特等席で見守らせてもらうこととしましょう」
「オーケー。ちなみに、契約の名が必要なんだが、要望はあるか? ない場合は、俺の方で勝手に名づけさせてもらうが」
「それならば、かつて人が呼んだようにモルガーナと呼んで下され。ケチな一柱ですが、どうかお手柔らかにお願いしますぞ」
そう言った後、老婆が杖を振り上げると、自分たちの身体は一気に浮遊をはじめ、天井の隙間を越えて天へと一気に登り始める。そして太陽のような鮮烈な光の中へと突入し、その明かりの中に魂が溶けるような心地がした後――目を開けると、すぐ近くには安堵の表情を浮かべているアザレアとフィオナの顔があるのだった。




