2-75:ブレイク・ザ・ドリーム 上
ゴルドヴァッサーが作り出した悪夢の空間は、コズミックタイドの見せる幻覚に非常に近かった。名状しがたい不可解な世界へと落とされ、ありとあらゆる苦痛の感覚が五感を襲う――だが、自分としては、そんなものは慣れたものである。大災厄のときにも、シュライクと戦っているときにも、他のイグノートゥスを封印するときも、何度も体験している。
それ故に、自分が心配したのはパントエールのことだった。彼女はコズミックタイドを乗り越えたことなどないだろうし、迫りくる悪夢に脳を壊されてしまうかもしれない。そう考えて、自分も幻覚を味わいながらも彼女に近づき、発狂しないようにフォローした形である。
もしこれが本物の邪神を相手にしているのなら、晴れない幻覚の中で相手と戦う必要がある。しかし、これはあくまで人が神器を介して疑似的に発生させているものに過ぎず、限界はあるはずだ――結果として悪夢から抜け出すことに成功し、ゴルドヴァッサーの前へと戻ってくることができた。
幻覚に心を囚われないように無理に抱き締めてしまった彼女を離し、正気を保っているかどうか確認することにする。
「パントエール、大丈夫か?」
「え、えぇ……その、おかげさま……で?」
こちらの胸元から離れた彼女は、どこか呆けたような様子でこちらを見つめ返し、そしてややあってから気まずそうに視線を外してきた。
手遅れだったのかと心配になったのだが、どちらかといえばこちらとの距離を測りかねているという様子であり――年頃の娘を抱き締めたのはまずかったと気付く。後でお姫様を抱き締めたことに文句でも言われないかと心配になるが、ひとまず廃人と化していないことに安堵するべきだろう。
「くっ……まさか、あの悪夢を抜けて来るとは……」
聞こえてきた声のする方へと視線を向けると、ゴルドヴァッサーがこちらの方を忌々しげに見つめていた。算段がことごとく打ち砕かれているので、焦りが見えるというのが正確かもしれない。
「だが、それなら力で叩き潰してやるまで! この世界は僕のテリトリーなんだ! お前らが何度立ち向かって来ようとも、叩き潰し続けてやる!」
そう叫ぶと、ゴルドヴァッサーの四本の長い腕がさらに伸び――五メートルほどの長さがあるそれらを鞭のようにしならせてこちらに向かって叩きつけてくる。単調といえば単調な攻撃だが、流石この世界の主というべきか、一撃一撃の重さはかなりのものである。
打ち出される先端の速度は優に音速を超えているのだろう。敵側の体の動きを見て軌道を予測して、なんとか剣で弾いて身を護るので手一杯だ。
それだけでなく、そこら中にしかけられている銃口が厄介だ。銃弾でなく熱線が発射されるので当たれば本来なら即死級、夢の世界なら当たってもどうとでもなるといえばなるのだが、腕による鞭状の攻撃と併せて、接近しにくい状況になっている。
付け入る隙があるとするならば、ゴルドヴァッサー自身での戦闘に慣れているわけではないという点か。これは、先ほどの廃工場での戦いからも立証済み。尖兵を数でもってけしかけて物量で押すタイプ。確かに腕とタレットによる攻撃は強力ではあるものの、搦め手はない。それ故になんとか対応はできてはいる形だ。
逆にこちらが厳しい点としては、普段のように邪神を用いた術は使うことができない。そのため、ミドガルズオルムやアトラク・ナクアを使って壁を作ることや、パンタグリュエルの強化でごり押すなどもできない。
仮に使役できたとしても、簡単に破られてしまうだろうし、どのみち麻痺や石化なども効きそうにない――そうなると、気合で相手に接近する必要がある。もちろん、ここの支配者からすれば、こちらの攻撃を防ぐことも容易なはずだが、そこはもう「根競べ」である。
シュライクに言われたように、断章ノモラスで攻撃を加えればダメージが入るはず。何度死ぬほどのダメージを負ったとしても、所詮は幻覚、剣をアイツに突きつけるまで何度も突貫するだけである。
だが、その近づく隙がなかなか生じない。剣を持つ右腕以外はどれだけやられても良いのだが――仮に一度でも剣を手放すと拾えない恐れがある――ダメージを受ければそれだけ後ろに戻される。
一方、こちらが近づけないことでもはや勝利の余韻にでも浸っているのか、荒れ狂う黒や赤い筋の向こう側で、ゴルドヴァッサーは嫌らしく口元を歪めている。
「ははは! 先ほどの威勢はどうしたんだい、ハルト君!? 身を守るだけで手一杯じゃないか……早く諦めたらどうだい!?」
言葉尻に併せて男は真ん中の腕を掲げて組み、それを思いっきり振り下ろしてくる。それは相手の予備動作から横に跳んで躱すのだが、ほぼ同時に放たれた他の腕にもろに当たってしまい、左肩から心臓の位置までが勢いよく抉られてしまった。また、併せて熱線が右足に当たり、そのままバランスを崩して無様にその場に倒れてしまう。




