2-74:十二年前の惨劇 下
まず、違和感を覚えたのは音。本来泥の中にいるのなら、音など聞こえないはずだ。しかし、実際には異音が鼓膜を叩く――普段なら人が認識できないような音も聞こえているのか、異様に高い音や低い音が不協和音として響き、時には一定に、時には不規則に聞こえて、骨まで揺らしてくるようだった。
次に臭い。何かが腐ったような刺激臭が鼻柱を通って脳に直撃するような感覚。同時に、何か甘ったるいような香り。息を止めても、それらの香りはとめどなく鼻を通って鼻腔を刺激してくる。
触覚。水の中にいるような浮遊感に、ぬめった何かが身体を――衣服を貫通して皮膚のすべてを刺激してくる。それは、無限の触手に襲われているような感覚。締め付けられたり、叩かれたり、愛撫されたり――とにかく、とにかく気持ちが悪い。吐きそうだ。
そんな刺激に耐えかねて、ついには瞼を上げざるを得なくなる。果たして、何が起こっているのか――恐ろしくて見たくもなかったが、同時に怖さのあまりに見ざるを得なかった。
そして、それがいけなかった。もはや、ここは人間の感覚でとらえきれるものではなくなっていたのだから。もう目を閉じても、瞼の裏に先ほど焼き付いた光景が無限に投影されてしまう。
目に映ったのは、十六次元が照らし出す無限の光彩だった。上も下も横もない、本来なら人の眼球が受け取ることができない光の刺激。そして、目の前には巨大な――それは全宇宙を飲み込むほどの――黒い、黒い蛸のような、いいや虫のように蠢くなにか。
それは目の前にありながらはるか遠くにあり、視界一杯に広がりながらもその全容と、周囲の景色とが目にいっぱいに映る。巨大な触手から生える無数の触手が私の体を捕らえ、またそこから生える触手が私の穴という穴から侵入し、神経を締め付け、脳を焦がし、心すらバラバラにしてくる。
同時に襲い来る激痛、爪が剥がされ、皮膚がはがれ、四肢は身体から切り離され、頭蓋が潰される。一瞬だけ再生したかと思うと、それを何度も繰り返す。恐ろしいほどの痛みに声にならない悲鳴を上げる。上げているはずだ――それも、宇宙の中のほんの一塵、広大な次元のうねりの中に吸い込まれて消えてしまう。
痛みが無限に続くならば、まだ幾分か幸福であったかもしれない。痛みこそが鮮烈で、他の感覚をかき消してしまうから。しかし、痛みは断続的で常ではなく、他の感覚も――五感の内、どれか一つでもあったら気が狂ってしまいそうな感覚――犯されていき、侵されていく。
誰かに思考を読まれている――滅茶苦茶に不快だ。貴方たちはそうやって私のことを分かった気になって、わけの分からない憐憫をぶつけるのかしら? それとも、世間知らずの小娘が、何か分かった気になっていると嘲笑をぶつける? こんな風に被害妄想をぶちまけている哀れな女に怒りすら覚えるのかしら? やめてよ、分かった気にならないで!
どうして、どうしてこんなひどい目に遭わなければならないの? そうだ、私が全部悪いんだ。私が悪いから、こんな責め苦を味わなければならないんだ。いや、なんだか全てがどうでもよくなってきた。肉体の檻に縛られているから、私はこんなにも不自由で、馬鹿みたいなんだ。感覚という名の責め苦は、生きるという名の災難は、すべて私の魂が肉体に執着しているから起こるんだわ。そうでしょう、身体を捨てればいいんでしょう? そうすれば、この無限の責め苦が終わるのでしょう? 自分が自分であるというくだらないエゴから抜け出して、原初へと還れば良いんだわ――あはははははははははは!
「……パントエール! 心を強く持て! お前が感じているものは、全部幻覚だ!」
雑音、せっかくすべてと溶け合い、自己が無限に分散しかけていたというのに――いや、今の音はきっと、大切なものだ。
そこでようやっと感覚が少し揺り戻り、意識が再び統合される感覚を覚えると、目の前には変わらない不気味な光景と、同時に男の顔がすぐ近くにあった。
「親父さんに言われただろう! 誰かを頼るんだ!」
気が付けば、手を何かに強く握られる――これは、ハードロックの手か。互いにグローブをしているはずなのに素肌のように感じられるのは、ここが幻想の世界だからだろうか?
つい先ほどまでは恐ろしい幻覚に心が壊れそうになっていたのに、今度はまた別の意味合いで頭が混乱してきている――男性にこんなに急接近されたことがなかったし、その力強さと熱さとに、なんだかどきまぎしてしまう。
しかし、彼を頼っても良いのだろうか? それには、色々な意味合いを含めて――きっとハルト・ハードロックは、私のことなど手間のかかる小娘くらいにしか思っていないだろう。どちらかといえば、厄介くらいに思っているはずだ。
それに、彼の心には今もなお、セレスタという名の少女がいる――いや、今はそんなことを言っている場合でもないのはわかっているのだが。それでも、そんな彼を頼ってしまっていいのか、そんな不安が心に浮かんでくる。
「で、でも……」
「今は俺を頼ればいい! 目を閉じられないなら俺だけを見ろ! 耳を閉じられないなら俺の声だけを聞け! それで、みんなのところへ帰るんだ!」
男はそこで言葉を切って、こちらの体を思いっきり引き寄せ、そして力強く抱きしめてきた。こちらが躊躇を見せたのは、貴方のことは頼れないという意味ではなかったのだが――しかし、確かに、もう雑音や幻視はまったく見えなくなった。目も、耳も、鼻も、全ての感覚が彼一色に染められてしまったのだから。
ようやくわかった。ハルト・ハードロックは、普段は斜に構えているし、他者に対して深入りしないが、有事の際には損得を捨てて誰かを助けるため全力になる、熱い人なのだと――そして、彼自身は自分自身のことを冷たい人間だとか、そんな風に思っているに違いない。
きっと彼は私でなくとも、必死に救おうとしてくれるだろう。だけど、今は彼の胸に身を委ねて――すると、次第に辺りの景色が落ち着き始め、元の金属の森へと戻っていたのだった。




