2-72:十二年前の惨劇 上
ハルトの精神が夢見の世界とかいう場所へと送られてから、しばらくの時間が経った。最初のうちはただ眠るようにしていたのだが、少しずつ様相が変わってきた。
まず、柱に繋がれて暴れていたパントエールが落ち着きを取り戻した。シュライクの予測では、ひとまずハルトがパントエールの精神を落ち着かせたのだろうと――それを見て、セギュールはほっと一息をついていた。
ただ、それだけでは二人は目を覚ましてきてくれるわけではなかった。それに、金庫の外ではまだ叫び声や打撃音が聞こえている――洗脳された人たちは、まだ正気を取り戻していないのだ。この騒動を根本的に解消するためには、やはり夢見の世界の主を倒すほかないらしい。
そして、次第に目を閉じている二人の様子にも変化が訪れる。最初のうちは悪夢でも見ているかのようにうめき声を上げ始め、今度は二人同時に暴れ始めたのだ。
「ハルト、ハルト!?」
こうやって声を掛けても、ハルトはただ床の上で暴れ続けるだけ――いてもいられなくなって視線を外し、ハルトの胸の上で悠長に丸まっているシュライクに声を掛ける。
「ねぇ、大丈夫なの!?」
「心配いらんよ。別に夢の中で何が起ころうと、実際に死んだりはしないからな」
「でも……この苦しみようは、ちょっと普通じゃない」
「まぁ、あまりに酷い体験をすれば、夢の中といえども発狂してもおかしくはないがね」
「えっ……!?」
「……ただ、それは普通の人間に限った話だ。考えてみたまえ。自分でいうのもなんだが、何故私のような邪神が、人間なんぞを主と仰いで従っているのか……その理由を」
そんなこと聞かれても、別段気にしたことなどないのだが――言われてみれば、シュライクという規格外の存在が、ハルトを主と仰いでいる理由は全く分からない。
なんだか、シュライクがハルトに倒されたとか話していた気はするが――仮にシュライク側にハルトを殺す気がなかったとしても、シュライクの頭脳をもってすれば、ハルトなど簡単に御せてしまいそうなものである。
それなら、どうしてシュライクがハルトに負けたのか――返答に窮していると、シュライクはその目を苦しんでいる主の方へと向けた。
「この男はな、我々イグノートゥスの天敵のような男なのだ。どれほど精神を揺さぶっても、どれほど凄惨な幻影を見せようと、決して心を折られたりしない……私など、一年間も執拗に追われ続けたんだからな」
「今回の敵は、邪神じゃない」
「夢の世界の支配者という時点で、その性質は我々に近い。むしろ、たかだか知的生命体の範疇において我が主との根競べに勝とうなどと、むしろゴルドヴァッサーという男に同情さえするよ。
とにかく、心配など無用だ、小娘。お前はただ、主の帰還を待ってさえいればいいのだ」
「でも……」
「でももへちまもない。主が勝ってくれなければ、彼に根負けした私の面目が立たないではないか」
そこで言葉を切って、シュライクは再びハルトの胸の上で丸まった。あたかも主が暴れているのが心地よいといわんばかりに――自分としてはハルトが苦しんでいる状況は変わらないので心配ではあるものの、確かにこちらからやれることがあるわけでもない。
また、同時にだが――なんとなく、シュライクの言っていることも理解できる。ハルト・ハードロックという男には、困難を乗り越えるだけの精神力が確実に備わっている。
それならば――まったく気持ちは落ち着かないが、自分も彼の帰還を信じ、ただ片隅から彼の様相を見守ることにした。
◆
黒い泥のようなものに引きずり込まれて、少し意識を失っていたようだ。そして身体に何かが纏わりつくような感覚がなくなってから目を開ける。真っ先にハードロックの姿を探して辺りを見回したが、近くには見当たらない。
まず、自分の状況を確認してみると、自分の体には何も付着してはいなかった。これはあくまでも夢見の世界が見せる幻覚であり、ここから起こることも全て非現実的なもの、ということなのだろう。
改めて辺りに目線を回すと、そこには地獄の様相があった。焼け果てた森の合間にある石造りの廃墟の付近で、嗅いだことのないような酷い刺激臭が満ち、そこかしこに人々の亡きがらと黒い泥とが横たわっている、そんな場所だった。
酷いのは、人々の亡骸が徐々に変質していっていること。肌はすぐに腐ったように浅黒く崩れ落ちていっているのだが、同時に息を吹き返したようにうめき声を上げ始めており――煉獄において人ならざる者と戦った経験はあるが、実際にこうやって変質しているさまを見るのは初めてであり、これを直視せざるを得ないのはきついものがある。
そして、直感する。ここが噂に聞くかつての秘密結社、虚空の鎖が滅びた地であるのだと。それだけでなく、恐らくこれは災厄が起こった直後だ。人々の亡骸がまだ変質の途中にあることが、その証拠だった。
しかし、どうしてそんな場所へと自分が誘われたのか。その理由は分からない。いや、何となくは分かっているのだが――ともかくこの場にとどまっても話は進まない。立ち上がって、ひとまず適当な方角へと歩き始める。
既に亡者と化した人々が辺りを徘徊している様子が目に入ってくる。最初こそ襲い掛かられると思って細剣に手を掛けたのだが、どうやら自分の存在は無視されているようである。もしかすると、本来の時間軸でこの場所には存在しなかった自分は、亡者たちの視界に入っていないのかもしれない。
そもそも食屍鬼の間を歩くこと自体がなかなか気の滅入る行為ではあるのだが、ひとまずこちらも彼らを無視して、状況が変わるまで歩き続けることにする。
状況の変化はすぐに来た。そして、やはりこの場に自分が招かれたことの理由に関する推察は当たっていた――廃墟の壁際に二人分の人影がある。片方は見覚えのある青年であるが、今よりも大分若い印象を受ける。
もう片方はつい先ほど見たばかりの少女ではあるのだが――この大災厄が招いた空気なのか、ここまで来るのに見た惨状と同じ悲劇が彼女の身体を浸食し始めていた。




