1-14:アオートの胚 下
「そういえば、先ほどの蚯蚓型のイグノートゥスの名は考えたのかね?」
「あぁ、ここに来るまでの間にな」
そう返しながら、服の下からエヌの写本を取り出し、それを握りながら次のように吟ずる。
「書の主、ハルト・ハードロックの名において、汝に盟約の名を授ける。大地を食らう蠕虫、其の名はミドガルズオルム」
命名の儀式が終わると、ネックレスがにわかに熱くなった。儀式が必要なのは、イグノートゥスに名前を付けることが、書の所有者である自分自身による邪神を定義することを意味するからだ。
名もない奴の力を、人間は使役することはできない。シュライクという名も、自分が書に封印した時に付けた名前である。
そもそも、イグノートゥスというのは原則として名を持たない。シュライク曰く、名というのは定義に等しく、イグノートゥスは本来的にはそれを避けようとするから、ということらしい。
名とは体を表すものであり、定義である。人によって解釈は様々ではあっても、名があることによって人々は共通の属性を共有することができる――要するに、名があるというのは「ある一定の幅の中にある理解可能なもの」となることである。
人間同士であれば、名があるというのは便利なことに違いない。人は共通の言語や定義でもって情報を共有し、個としてでなく群として知識を蓄積することができるようになるからだ。
一方、イグノートゥスにとってはその限りではない。イグノートゥス自体が言語的な知識の蓄積や名による理解を必要としていないというのももちろんだが、名を持つことでイグノートゥスは「名状しがたい畏敬の対象」から「一定の理解はできる存在」へと変貌してしまうからだ。
もちろん、邪神たちも元来として得意な領域を持っていることは間違いない。名を持たずとも、自然とできること、できないことの区別はある訳だが――それでも生物の信仰で力を強めるイグノートゥスは、名を持つことで定義されると、使役できる力の幅が狭まる。それ故に、多くの邪神は名を持つことを避けるのだ。
ちなみに、あえて自らに名を付け、人に迎合した神々もいる。それが、一万年前の戦いで勝った、迎合者と呼ばれる神々である。彼らは自らを火の神、稲妻の神などと定義することで、力の幅を狭める代わりに、人々から安定した信仰を集める道を選んだのだ。
ともかく、命名の儀式が終わったので、これで先ほど封印した蚯蚓型のイグノートゥス、ミドガルズオルムの力を使役することが可能になった。先ほどの戦いから見るに、大地や石を操る、どちらかと言えば防御寄りの活用方法になるか。ただ、攻撃を当てれば相手を石化させることもできるから、案外必殺の一撃としても活用できるかもしれない。
「さて……それで、コイツをどうしようか」
ネックレスを衣服の下に戻しながら、改めて横たわっている少女に視線を向ける。相変わらずすやすやと、静かに寝息を立てて眠り続けており、全く起きる気配は感じられない。
「どうするもこうするも、我輩の意見は先ほど述べたのと変わらんぞ。叔父だとか何とか言って連れ回せばいい」
「コイツ、言うこと聞くのか?」
「アオートの胚は、元となった人物の記憶と経験を引き継ぐ。その記憶から敵味方を判別するようになるのだ」
「……要するに?」
「すでに培養を完了しているコイツは、他のマスターを持っていると考えるのが妥当だ。当然、コイツは君のことなんぞ知らんわけだから、良くて警戒、最悪の場合は敵として認定されてもおかしくはない」
「ダメじゃねぇか」
「そこは君の腕の見せ所と言ったところだろう。成長した胚の情緒は人のものとそう変わらん。信頼を得ることができれば、味方にすることも可能だろうさ」
「はぁ……なんでわざわざ、人間の姿を取るんだ?」
「最大の理由は、これを作ったイグノートゥスが、そうあることを選択したからだ。アオートの胚の元となったイグノートゥスは、先ほどの石のピラミッドで祀られていた一柱であり、混沌の渦より生じた原初の邪神だ。
そいつは知的生命体のあり方を効率的に理解するため、その身体を幾つかに分かち、そしてその生命体の姿形を取って、知識を吸収しようとする……その分かたれた身体の一部こそが、アオートの胚だ。
さらに、基本的には女性の姿を取って、その生物の雄と交わり、増殖し、自らの子孫を増やそうとする性質があるのだ」
「……なんだか、それだけ聞くとおぞましいな」
「おぞましくて結構。本来は、人から見れば我々はそういう存在だ。しかし、そのおぞましさに見合うだけの価値はあるぞ……先ほどの蚯蚓との戦いを思い出せ。かなりの強化が為されていただろう?」
「そうだな……コイツは混沌の渦に近い一柱の力を継承しているから、異界の力を引き出すことができると、そういう感じか?」
「そういうことだ。もっとも、いくら混沌の渦に近いと言っても、それも無限大ではない。一つの胚が引き出せる力には限りもある……それでも、今の我々にとっては強力な補助装置と言えるのは間違いないだろう」
シュライクの言うように、先ほどの激戦を鑑みるに、戦闘においては十分すぎるほどの強化が為されると考えていいだろう。おそらくミドガルズオルムそのもののポテンシャル自体は、以前に戦ったアトラク・ナクアと同じくらいだと思う。
それでもアレほど苦戦したのは――それこそアザレアという女がいなければ切り抜けられなかっただろう――アオートの胚と、そこからもたらされる混沌の渦の影響に他ならなかったのだから。
そんな風に考えている傍らで、シュライクはこちらの肩から飛び降りて、少女の白い肩の上に乗り、寝息を立てている顔を眺めた。自分も自然と少女の顔に目がいく。ずっと手元にいたせいであまりよく見ていなかったが、透き通るような水色の長い髪に、端正な顔をしている少女――まだ瞳が開いたところは見ていないが、なんとなく大きな目をしている、そんな気がする。
「……この星におけるアオートの胚は、その大半は一万年前の神々の争いたる神魔大戦において互いの陣営に分かたれ、塩の大地が海底に沈むのと同時にその役目を終えたはずだ。まさか、この時代に残っているなど、我輩も知らなかったことだ」
「つまり、コイツは最近になって培養されたものだってことか?」
「かなり高い確率でそうだ、と言うべきか。もし一万年前に培養された個体が現在に残っていたとするなら……それは冷凍保存などで不可能ではないが……その外見はかつてこの大地に存在した者の形を取るはずだ。
だが、この娘の外見は、それとは一致しない。現代の大陸の人種の特徴に一致する。どこに胚が残っていたのかはわからんが、いずこかで発見されて、現代人の遺伝子情報を基に培養されたのだろう。
そういった意味では……あまり戦闘で役には立たない可能性もあるな」
「……この子の元になった人物の記憶を継承しているから、か」
「その通り。胚であるからその性質は受け継いでおり、筋力などは強力なはずだが、残念だが知識と経験についてはその限りではない。補助装置としての役割は期待できるが、それ以外は難しいかもしれないな」
「おい、それじゃあ連れてきた意味が……」
「しっ……君、これはちょっとまずいかもしれないぞ?」
シュライクは視線を扉の方へと向け、その大きなギョロ目の瞼を細めて外を睨み始める。これは、危惧していた事態が発生してしまった、と考えるべきだろう。
胚の少女、いったん起床まであと5話。




