2-61:甘く優しい記憶の中で 上
階段を下り始めてどれ位経っただろうか。空間全体は暗く、せいぜい数段先までしか見えない階段を下り続ける。先が見えないせいで神経も使うし、果ても見えないせいでどこまでも続くかのような心地がしてくる。
しかし最終的には、思っていたほどの距離ではなかった――とはいっても、ただひたすらに虚空に浮かぶ階段を下りていた関係で、体感時間としてはそこそこかかった印象ではあったのだが。恐らくは千段には満たなかったとは思う。
ともかく、階段の終着点には少し開けた場所があり、闇の中にうっすらと巨大な石造りの門が鎮座しているのが見えた。もしかすると、以前にはここにも門番でもいたのかもしれないが、今は誰もいない。これなら、夢の国に押し入ることも可能だろう。門に手を当て、腕に力を込めながら押し開けると、その先は今までとは打って変わった明るい景色があった。
そこは、穏やかな風が吹く静かな林道。林道といってもかなり手入れがされており、足繁く通っている人がいることが予想される。
足を踏み出して風の導く方へと歩いていくと、背後の門が閉まる音が聞こえた。振り返って見ると、自分が通ってきた門は跡形もなく消え去っていた。シュライクの言っていたように、後戻りができなくなったといったところか。
ともかく気を取り直し、先ほど向かおうとしていた方向へと改めて歩みを進める。木々の間から穏やかな陽光が降り注ぎ、遠くからは鳥のさえずりが聞こえる平穏な景色が続く。
そしてしばらく歩いていくと、林の拓けた場所に木造のロッジが現れた。よく手入れがされているようであり、そこまで大きくない一階建てではあるものの、居住性は良さそうに見える。
その家屋に近づいて、窓からおもむろに中を覗き見てみる。すると、中には二人の姿があった。
片や、立派な髭の金髪の壮年。着込んでいるのは質素な衣服ではあるが、纏っている雰囲気と顔つきにはどこか威厳があり、本来ならこのような田舎のロッジにいるようなタイプではない。
ただ、頻繁に咳き込んでいるようであり、やせぎすになっている点は少々気になる。
そしてもう一人は、青髪の幼い少女――フィオナよりも少し年上の、恐らく十二歳前後の女の子だ。だが、なんとなく横顔には見覚えがある。そう、アレは恐らく、パントエールの幼い頃の姿なのだろう。
そうなると、パントエールの隣にいる男性こそ、ソルヴェーニャ先王の兄、ガストン・ド・ラトゥールということか。パントエールは魂をここに縛られているのに対し、ガストンは夢の世界の住人なのだろうが――この様相は自分が当初考えていたものと大分違った。
夢の世界に囚われた魂は、あたかも地獄にいるかのような責め苦を味わっているものだと思い込んでいたのだが、これはその真逆である。パントエールの表情を見れば分かる。いつも気難しそうな顔をしていた彼女が、あんなにも安らいでいる表情を見せているのだから。
もしかすると、ゴルドヴァッサーは夢の世界の住人に対して「最も幸せだった記憶」を見せることで、人々が現世に戻ろうとするのを抑えているのかもしれない。
さて、どうしようか。自分が探すべきはパントエールではなくゴルドヴァッサーだ。しかし、アイツの場所へと辿り着くための情報などない。
せめて、シュライクにゴルドヴァッサーの探し方を聞いておくべきだったか――いや、アイツに聞いてもきっと分からないと答えただろう。それは自分に不利を被らせたいわけでなく、他所の邪神が造り上げた精神世界のことなど本気で分からない、という意味合いである。
ひとまず、ここにいても話が進まないか。そう考えて踵を返そうとしたタイミングで、ロッジの中から声が聞こえ始める。変に盗み聞きしようというわけではなかったのだが――聞こえてきた会話の内容に違和感を持ってしまい、思わず隙間から聞こえる二人の会話に耳を傾けてしまう。
「ごほっ……苦労を掛けるな、コンスタンツ」
「いいえ、良いんですよ、ガストン様。こうやって貴方のお側で貴方のお世話をできることが、私の喜びですから」
そう、自分が違和感を持ったのは、主にパントエールの――ここではコンスタンツと呼ぼうか――ガストンの呼び方である。亡命してきた先で質素な暮らしをしていたとしても、二人は元々王族であり、親子であるはずである。
それなら、コンスタンツはガストンのことを「お父様」とでも呼ぶのが普通ではないだろうか。
違和感はそれだけではない。中の様子を少し盗み見ていると、どうやらコンスタンツはその小さな体で家事を行っているようである。もちろん、子供が家の手伝いをするなどは農民などでは一般的ではあるのだが――体調がすぐれないとしても、親が子供だけが仕事をしているのを眺めているということがあるだろうか。
いや、もうこれがどういうことか分かっている。コンスタンツがバルトンと話しているとき、自嘲気味に「貴方は全てを知っているはず」と笑っていたこと。この真意がこれなのだ。
コンスタンツ・ド・ラトゥールという名の少女は存在しない――ただ、コンスタンツという名の、家名も分からない少女が存在するだけなのだ。
要するに、コンスタンツはガストンの実子ではなく、養女兼使用人であったとか、そんなところなのだろう。




