2-56:血統の檻 下
「パントエール! 意識をしっかり持て!」
「はは、もう彼女にハルト君の声は届かないよ……僕にはわかる。彼女は完全に心が折れてしまったのさ」
声が聞こえると共に、作業場に禍々しい黒い粒子が舞い散り始める。上を見ると、作業場の上に巨大な魔法陣が描かれており、粒子はそこから降りてきていたのだ。なるほど、この術式で人々を洗脳していたのだろう。
「モルガーナ・エン・ソムニア・ルメナ・ノウム・アヴァル……」
詠唱の声がするのは、自分から約十メートルほど離れた距離だ。単純な直線ならば一気に詰めて斬り捨てるのが良さそうなのだが、機材や残った教徒たちが邪魔をしている。一か八か、交戦中の王党派と距離を取って銃のリロードをし、ストックを投げ捨てて銃口をゴルドヴァッサーに向けて引き金を引く。
発射されたのは麻痺弾だ。弾丸は瓦礫や人の隙間を縫って男に命中した。一応、他の者たちに当たってしまうことも考えてのことだったのだが――だが、それが甘かったか。帝国大元帥は伊達ではないということなのか、ゴルドヴァッサーは顔を歪めたものの、気迫で身体を動かし続け、ランタン型の神器を天井の陣へと掲げる。
「甘き幻想へとその魂を誘え! 夢灯アヴァロン!」
神器の起動と共に、部屋いっぱいに漆黒の瘴気が降りしきってくる。同時に、眩暈と吐き気と頭痛とが一気に来る。
不快なだけでないこの感じはコズミック・タイドに近い。肉の内側にある魂を浸食してくるような、それに身体が反応して不快感が湧き出てくるような、そんな感覚――だが、自分はこの感覚には慣れているし、決して耐えられないほどではない。
まだ瘴気が晴れきる前に剣を握って走り出す。この瘴気の中なら他の者たちは動けないだろう。麻痺して動けなくなっているゴルドヴァッサーに向けて切っ先を突き出す。
空間を支配していた霧が晴れる。そこには、胸に深々と刃を受け、喀血しながらも――切っ先は僅かに心臓を外れ、肺へと突き刺さっている――麻痺した顔に嫌らしい笑みを浮かべるゴルドヴァッサーの姿があった。
「ははっ……やっぱり、ハルト君には効かなかったか……まぁ、そうじゃなくっちゃ、面白くない……」
「……なんだと?」
「本番は、これからだよ……この身体にも飽きてきたところだったし……まだまだ遊ぼうじゃないか、ハルト……君……」
「……黙れ!」
ノモラスを抜き出し、そのままお喋りな男の首を跳ね飛ばす。そのタイミングで、パンタグリュエルの効果が切れる――身体に猛烈な痛みが走り、思わず自分も膝をついてしまう。そのままの姿勢で周囲を見てみると、洗脳されていた者たちは呆然としたようにその場に立ち尽くしており、パントエールとバルトンは先ほどいた場所で倒れ伏していた。
ゴルドヴァッサーが気になることを言い残していたが、ひとまずこれでひと段落か。後は、術者が死んだことで正気に戻れば良いのだが――しかし、嫌な予感は当たった。男の予言通り、この悪夢はまだ終わりではないらしい。呆然としていた者たちが再び金切り声を上げて、こちらへ向けて襲い掛かってきたのだ。
痛む身体を押しながら、目の前まで迫ってきていた一人に麻痺弾を撃ち込むが、四方から来られては反応できない。万事休すか――いやここで倒れるわけにはいかない。何とか振り返り、もう一人は銃弾で無力化することはできたが、次の一体には間に合いそうにない。
「……ハルトさん!」
女の声が空間に響くと、こちらに横から迫っていた影がバカみたいな勢いで吹き飛ばされた。そのまますぐに一陣の風が吹き、金切り声の代わりに打撃音とうめき声とが何回か聞こえ――そしてややあってから、目の前に女の細い足が現れた。
「申し訳ありません、ご主人様! また助太刀に来るのが遅れてしまいまして……!」
「……いや、来てくれて助かった。ありがとう、アザレア。しかし、さっきは名前を呼べたのに、どうしてすぐダメになるんだ?」
「あの、それは、その……!」
「ふぅ……謝らなくていいから、悪いが手を貸してくれないか?」
「は、はい! ……はぅ! ご主人様の手……!」
アザレアに差し出された手を握って立ち上がると、後ろからフィオナとセギュールが作業場に駆けこんでくるのが見え――同時に、廊下にいたのであろう暴走した教徒たちが中へ押し寄せてきたのだった。




