2-42:ハルトチャレンジ 下
「でも、ご主人様は私のご主人様で……」
「それはいい。なんならここでは好きに呼んでくれて構わないから、外では名前で呼んでくれないか?」
「す、好き!?」
「うん、都合のいいところだけ取り出さないで、俺が伝えたい部分をきちんと聞いてほしい」
一応、こちらの意図はきちんと伝わっていたのか、またアザレアはこちらの名を呼ぶ予行演習をし始め、しかしいつものように最後まで名が呼ばれることはなく、エキサイトして終わってしまう。
まぁ、彼女がご主人様と呼ぶこと自体はマイナスばかりではない。指名手配中であるし、ハルトという名前自体はメジャーではないから、外で呼ばれたら気付かれる可能性もある。フィオナなどは気を使って外で自分を呼ぶときは「ん」とか「ねぇ」とかの呼びかけで上手く誤魔化してくれているが、アザレアの場合はそういった気が回らない可能性がある。
そういう意味では、ハルトでもご主人様でもない呼び方が良いと思うのだが――。
「……そうだ、ジョニー呼びだったらいいんじゃないか?」
「はい? ジョニーさん? あぁ、偽造証のお名前ですか」
「面と向かって偽造証と言われるのもなんだが……ほら、ジョニーなら言えたじゃないか」
「そうですね……ご主人様はジョニーさんって感じがしないので、逆に言えてしまうといいますか?」
「それぐらいサラッと言ってくれる方が、俺としてもありがたいからな。別になんて呼ばれたっていいし、これからはジョニーと呼んでくれ」
「うぅん、ちょっと待ってくださいね」
アザレアはこちらを見つめながら「ジョニーさん、ジョニーさん?」と呟く。
「あの、ジョニーさんって呼ばないとダメですか?」
「指名手配中だからな。なんなら街中でハルトって呼ばれるよりもいい」
「でも、全然しっくりこないので、できればジョニーさん呼びはご遠慮したいのですが……」
「ご主人様以外なら何でもいいんだがな……ともかく、外でご主人様って呼ばれると、変な目で見られるのが嫌なんだ」
「うぅ、ご主人様が嫌がることは、私もしたくないです……」
「それじゃあ、ハルトかジョニーの二択だ。どっちがいい? 俺はどっちでも構わないぞ」
「ハル……さん、の方が良いです」
「よし、それじゃあ頑張ってみてくれ。付き合うから」
「は、はい。ハ……ルト、さん」
「違う! 俺の顔を見ながら!」
「はぅっ! そ、それは難しいです!」
アザレアは完全に編み物を放り投げて、顔を真っ赤にしながら両手をぶんぶんとしている。向こうが作業を止めたとなれば、こちらも本気で向き合わなければ失礼というもの――ペンを放り出し、机から身を乗り出して彼女との距離を詰める。
「いいや、今日で徹底的に叩き込んでやる! ほら!」
「はわっ! はぅっ! はぅぅ……はる、はるぅ……!」
「もっと真剣になるんだ! アザレア!」
「は、はひ!? が、頑張ります!」
◆
広くてふわふわなベッドの上で目を覚ます。ただ、部屋の中は薄暗い。朝ならアザレアがカーテンを開けてくれているので、恐らくはまだ夜中なのだと思うが――なんだか隣の部屋がうるさい。多分、それで目を覚ましたのだと思う。
耳を澄ますと、ハルトとアザレアが声を張り上げているようだ。もしかしたら、喧嘩でもしているのかも。そんな風に心配になり、ベッドから起き出してゆっくりと扉を開く。
そこには、ハルトが机から身を乗り出してアザレアの頬に両手を添えている光景があった。対するアザレアは顔を真っ赤にして目を閉じており、ここだけ見たら、まるでキスでも迫っているような雰囲気で、一瞬で意識が覚醒する、のだが――。
「頑張れ! アザレア、頑張るんだ!」
「は、はい! は、はる……うぅううううううう!」
「……二人とも、何やってるの?」
思わず、そう質問してしまう。よくよく見れば全然大人っぽい雰囲気じゃないし、どちらかと言えば熱血っぽい雰囲気だ。こちらの声が聞こえた瞬間、二人ともぎょっとした表情でこちらを見て、そしてハルトはすぐさま手を頬から離して椅子に戻り、アザレアは真っ赤な顔を両手でふさいだ。
「ちちち、違うのよフィオちゃん!」
「うん……ハルトの名前を呼ぶ練習をしてたんだよね?」
「そ……その通りです……もう本当にその通り過ぎて、その通りです……」
何故だか急に自分に対してすら敬語になったアザレアは、そのまま椅子に沈み込むように小さくなった。そして今度は机の上から、恐らく特等席で一部始終を見ていたであろうシュライクの笑い声が聞こえる。
「ははは、なかなかの傑作だったな。いやぁ、小娘にも見せられてよかった」
「確かにちょっと面白かったのは認めるけど、なんというか、笑っちゃダメなような気がする」
「小娘は優しいな。だが、思いやりというのは時に人を傷つける鋭利な刃にもなりうる……ほら見てみろ、二人とも気まずそうにしておるではないか。こういうときは笑ってやった方が良いのだ」
「そうかもしれないけれど、流石に今から笑う気にはならないかな……」
そんなこんなで、その日はもう寝ようということになり、ハルトもアザレアもそそくさと寝室にこもってしまった。自分も寝直そうと思い、アザレアのいる――いつも自分のために小さくなってくれているのだが、今日は余計に縮こまっているように見える――ベッドに入る。
しかし一度目が冴えてしまうと、なかなか眠気が来ない。そこで、少々疑問に思っていたことをアザレアに――彼女も起きている気配がする――質問してみることにする。
「アザレア、この前フェルノワールから逃げるときに、普通にハルトさんって言ってたよ?」
そう、血だらけのハルトを抱えて逃げるとき、アザレアは彼の名前を呼んでいた。一回だけなら聞き間違えかもしれないが、アザレアは何度も何度もその名を口にしていたのだ。
確かに、あのときと普段では状況も違うし、そういった意味では「別に今さらでは?」というのも違うのかもしれないが――アザレアはベッドの中でこちらへ振り返り、思い出すように目線を上に向けながら口を開く。
「そうかしら? うーん……必死だったから、あのときのことはあんまり覚えてないわ」
「ふぅん……でも、なんでそんなに名前を呼ぶのが恥ずかしいの? ハルトなんかハルトなんだし、そんなに緊張しなくていいのに」
「その、実は恥ずかしいとか、緊張とかじゃないの」
「それじゃ、なんで?」
「その……あの……ハルトさんを前にしてハルトさんって名前を呼ぶと、すごい気持ちが溢れてきちゃって……想いを止められなくなっちゃいそうというか……ふぅ……」
本人がいないというのに顔を真っ赤にしているアザレアは、吐く息すら色っぽくて、近くにいるこちらがドキドキしてしまう。しかし確かに、この雰囲気を四六時中出されたら、アザレアの周囲にいる人全員に悪影響があると思う。
ただ、どうフォローすればいいかもわからず、「大人って大変だね」という曖昧な返事をすることしかできず――ドキドキはいつまでも収まらず、その日はなかなか眠ることができなかった。




