2-41:ハルトチャレンジ 上
そんなこんなで、今日は色々と練り歩いてきた後であり、フィオナはすっかりと疲れて早めにベッドに入ったらしい。自分もあちらこちらに目が移る子供のようなアザレアに付き合わされつつ、荷物も持たされたので結構疲れがあるのだが、大人として寝るにはまだ早い。
そのため、今はアザレア文字に向き合って、対照表を作っている最中だ。文字自体は読めずとも、あのときの状況から内容を多少は予測できるし、少しはパターンも見えてきた。やはり誤字も多いようで、読めそうで裏切られることもあるのだが、部分的には「恐らくこう書いてある」が見えてきた形だ。
「あの……どうぞ」
未解読文字の解読に集中していると、目の前に湯気の立つカップがゆっくりと置かれた。アザレアはそのまま自分の正面で椅子に腰掛け、今日買って来た編み物の道具を手に取って作業を再開した。
「……コーヒーが良いんだが」
「コーヒーはダメです。寝れなくなっちゃいますよ?」
「まぁ、ココアも嫌じゃないけどな……」
カップを手に取り、温かいココアに口を付けながら一息を入れることにする。休憩がてらに正面を見ると、アザレアが意外と器用に編み物を続けている。普段の怪力からは考えられないくらい繊細だ。
こちらの視線に気づくと、「あっあっ」とか言いながら顔を真っ赤にしているせいなのか、アザレアの手元が狂い始めた。あまり見ていると作業を邪魔してしまいそうなので、こちらも作業に戻ることにする。
「……私、ご主人様のことがちょっと羨ましいんです」
しばらく静かな時間が続いた後、ふとアザレアから声が上がる。
「俺に対して羨ましい要素なんかあるか?」
「その、ご主人様はフィオちゃんと仲良しなので」
「何言ってるんだ。口を開けばアザレアは大好き、ハルトは嫌いだって言ってんだ。お前さんの方がよっぽど好かれているだろう? この前なんかアザレアがいなくて泣きそうになってたくらいだからな」
「あのときは……ごめんなさい。本当はすぐに帰ってくるつもりだったのに、たくさん本があって目移りしてしまって」
「それに、最近は王党派の連中にも懐いてるしな……俺なんかどうでもいいだろう」
「……はは、違いない。飼い犬はコミュニティの中で序列を決めるというが、君は最下位だろうさ」
先ほどまで目を瞑っていたシュライクが横やりを入れてきた。コイツはコイツで睡眠が必要らしく、てっきり今は本当に寝ていると思っていたのだが――自らだけが干渉できる次元を持ち、人知を超えた存在であるイグノートゥスといえど、この世界に存在している限りには休息も必要らしい。
ともかく、シュライクはアザレアに睨まれて「おっと」と呟き、再び机の上で目を瞑って大人しくなった。多分狸寝入りだろうが――ともかく、アザレアは再び手元の作業に戻りながら話を続ける。
「どうでもいいなんて、そんなことありませんよ。フィオちゃん、周りに気を使ってますから。とっても繊細で、いつも周りを見て、誰かを傷つけないように一生懸命なんです」
「俺に対しては違うだろう?」
「だから、ご主人様は特別なんです。フィオちゃんが、気を使わずに話せる、唯一の人……多分、フィオちゃん自身もご主人様は気兼ねない人なんだって、気付いてないと思います」
普段のクソガキな態度を見ているとそんな気もあまりしないが、確かに自分に対して気兼ねないという点だけは当たっているかもしれない。
ただ、それは先ほど言ったように、嫌われてもいい相手だからなのだと思うが――そんな風に考えているとアザレアは手を止めて、彼女たちの寝室の方に視線を向ける。
「あの子、たまに寝言を言ってるんです。パパ、パパって」
「アイツ、そんなにお父様とやらのことを大事に……」
「……私は、ちょっと違うと思うんです」
アザレアはそこで言葉を切り、手元の編み物を再開する。
「あの子の追い求めているパパさんっていうのは、きっと三百年前のフィオナ・コルネリア・ヴェルメンティーノちゃんの記憶の中にいる優しいパパさんなんです。
フィオちゃんの言うパパさんとお父様は、同一人物なのかもしれませんが……三百年という時間の断絶が、パパさんを変えてしまったのではないでしょうか。
フィオちゃんからたまに聞くお父様という人は、どう聞いても優しさを感じません。もちろん、私たちには分からない事情もあるのでしょうし、蚊帳の外からあれこれ言うのもおこがましいかもしれませんが……でも、だから、フィオちゃんもパパとお父様で呼び方を分けているんじゃないかと。
そして、まだお父様の中にかつてあった、優しかった部分を追い求めている……そんな風に思うんです」
今のアザレアは普段と比較して饒舌だ。手を動かしているのが、良い感じに思考にも影響しているかのように――編み物を続けながら紡いだ彼女の言葉は、確かにフィオナの心を的確に表現しているように思う。
ただ、恐らく、アザレア自身の言葉にも裏がある。つまり、フィオナは父性を求めていると――そして、それを誰かに期待している。そんな風に聞こえる。
「……それで? 何が言いたいんだ?」
一応、そこまで冷たい声は出さなかったとは思う。それでもアザレアはこちらの不機嫌を察したのか、また手元を止めて両の掌をぶんぶんと振りだす。
「ご、ごめんなさい! あれこれしてほしいというわけではないんです。私がそう思ったという感想を述べただけで……ただ、今まで通り、フィオちゃんと仲良くしてくださればと、そう願います」
「はぁ……まぁ、別にフィオナのことを嫌ってるわけでもないからな。自然には接しようとは思うが」
「はい、よろしくお願いします、ご主人様」
「……それだ」
「……はい?」
「やっぱりそのご主人様って呼び方、改めさせたいと思ってな」
今の会話の中に何度も出てきてはいたが、最後に念押しされるようにご主人様呼びをされて改めて気になった。ちょっと会話も湿っぽくなっていたので、切り替えには丁度いいだろう。対して、こちらの真意など一切伝わっていないのか、アザレアの方は相変わらずキョトンとしている。




