2-32:穏やかな午後 下
「なぁ、アザレア。この書き置きなんだが」
「あ、あわわわ! あの、ごめんなさいご主人様、お見苦しいものをお見せしまして……」
「いや、これなんて書いているのか教えてくれ」
「……はい?」
なんて書いてあるか分かれば、どの文字がどの音に対応するのかパターンを理解しやすくなる。しかし冷静に考えれば、それはそれで面白みがないように思う――無窮の荒野に一滴の水雫を探すような作業が楽しいのであり、答えを聞いてしまっては、最初からオアシスの場所が分かった状態で荒野を行くような作業になってしまう。
「いや、やっぱりいい。自分で解読してみせる」
「えぇっと……はい?」
「解読が終わったら、答え合わせをしてくれ」
「は、はい……はい?」
「……いや、それだと流石にあまりにヒントがなさ過ぎるか。なぁ、これってアザレアって署名で良いんだよな?」
一瞬で矛盾してしまったようだが、流石に取っ掛かりくらいは欲しいのも確かである。そう思いながら未解読言語が記載されている紙を差し出して右下の部分を指すと、アザレアは「確かに」と頷いた。
「なんだか、ここなんかは手癖で書いてしまったというか、ほとんど無意識だったんですけど……確かにアザレアと書いてあります」
「……ほぅ、それは面白いな」
ソファーで大人しくしていたシュライクが急に起きだし、翼をはためかせて再び机の上に鎮座して紙の横に留まる。
「手癖で書いているということは、少なくともこの女は複数回、アザレアという署名で手紙を書き綴っていたことになる。そうなると、仮の名だと思っていたアザレアという名は、実は本名なのかもしれん」
「そうだな……いや、だが一つおかしくないか?」
「何がだね?」
「手紙というのは、誰かに読まれることで意味が出てくるわけだろう?」
「ははは、君も結構酷いことを言うな」
確かに、読めない文字で書く手紙になど意味はないと暗に言ってしまったわけだが――素直すぎて人を疑えないアザレアは、この「暗に」がよく分からなかったようで、首を傾げているだけだった。ともかくセーフであったので、再びシュライクの方へと視線を戻す。
「だが、その通りだ。この手紙を解読できる人間がそういるとは思えん。そうなると、日記のように誰に見せるわけでもなく書いていたのか……それだと署名をするのには違和感もあるが、自己対話としてそのようにしていた可能性はある。
他には、君のような物好きが解読してくれていたため、女はそれに頼って文字を矯正することをしなかったか……家族などであれば、もしかしたら読めたのかもしれないしな」
「いずれにせよ、アザレアっていうのが本名だって可能性は高まったわけか」
「まぁ、我輩から切り出しておいてなんだが、名前などにそう意味があるとも思わんがね。君はジョニー・ウォーカーだろうがハルト・ハードロックであろうが君だし、何なら女だとか小娘だとかいう呼び方で十分コミュニケーションは取れているではないか」
「お前ら基準で言えばそうなんだろうが、人間ていうのはもう少し複雑なんだよ」
「いいや、慣習や常識に縛られて自己を解放しきっていないだけだ……まぁ、それも肉の器にある君たちの本能だということも理解している。とやかく言う気はないさ」
いろいろと脱線したが、彼女の名前がアザレアだというのは確定でいいだろう。一応、彼女の名前については何となくだが気になっていたので――最初に呼んだときの反応が薄かった――これで一つ疑問が解けたといえる。
そして、今度は新たに出てきたミステリーに向き合うこととしよう。少し取っ掛かりもできたことだし、解読の腕がなまらないように、この未解読文字を使わせてもらうことにする。
「こいつはいい鍛錬になりそうだ。ありがとう、アザレア」
「は、はい……その、こちらこそ……?」
ポカンとするアザレアをよそに、玄関からフィオナの「少しだけ隣にお邪魔してくる」という声が聞こえる。それに生返事を返し、改めてアザレア文字の解読に向き合うことにした。
◆
パントエールを見送るために自分は玄関まで行って、そのまま少しだけ隣にお邪魔することになった。彼女は読書家で、部屋にはたくさんの本があった。ここは図書館も近くにあるが、隣の方が気楽に返却できるし、彼女の蔵書の中に興味のある分野の本も何冊かあったので、見繕って帰ることにした。
本を探している間、彼女は自分から色々と情報を聞き出そうとしていたと思う。自分に対することというより、ハルトやアザレアのことについてだが――よく分からない、と返しておいた。パントエールのことは信頼できると思うが、何を話しても良いか、悪いかの区別はつかないし、なにより本当に分かっていないことだって多いのだから。
そんな風にのらりくらりとやっていると、パントエールは「しっかりしているわ」と自嘲気味に笑い、それでもお菓子を渡して解放してくれた。ハルトの本は暗号解読関連ばかりで、興味は割と薄かったので――それこそ本の知識があってもアザレアの文字を解読するのには役に立たなかった――しばらくは隣に通うだけで知識欲が満たされそうである。
部屋に戻ると、何やらアザレアが恥ずかしそうに顔を真っ赤にしていた。それだけなら少々心配もするのだが、ハルトは机に向かって先ほどの作業を続けているので、またアザレアが勝手にエキサイトしているのだろう。
「アザレア、どうしたの?」
「いえ、その、なんというか……ご主人様がずっと、私の書き置きを読もうとしてくれているのが、嬉しいような、恥ずかしいような……!」
「あー……うん、そだね」
ちなみに、その後はハルトを置いて、アザレアと二人で近くの図書館へ行くことにした。先ほどは身分証がなかったせいで――以前はハルトの図書カードがあったが、指名手配されている今は使えない――本の貸し出しができなかったので、改めて赴いた形である。
本の貸し出しはすぐに終わった。そもそも、彼女の帰りが遅かったのは、広大な図書館の中で必要な本を見つけるのに時間が掛かっていたかららしいのだが、既に目星はつけていたのであり、スムーズに行えた形だ。
アザレアが借りたのは三冊。一冊が料理、一冊が裁縫、そして最後の一冊が字の書き方の本だった。
料理に関してはレパートリーを増やすため、裁縫についてはちょっと思いついていることがあるらしい。それと、書き置きをしていて自分の字がアレなことに気づいて、字の書き方の本も見繕ったに違いない。
「……ご主人様が読んでくれるなら、文字は上手くならなくてもいいかも?」
「私が困るから、上手くなってくれた方がいい」
「はぅっ! そ、そうよね……おばあちゃん、頑張るわ」
家に帰った後は、三人で机を囲み、本に向かう時間が流れた。ただ、静かに時間が流れていく――不思議な感覚だったが、この感覚はイヤじゃない、それだけは確かだった。




