2-31:穏やかな午後 上
「まだ口頭での合意の範疇だけれど、先に渡しておくわ。二人はとくに指名手配はされていないから、名前はそのままよ」
口ぶり的に、身分証を作ってきてくれたということか。まだ正式な契約をしていなかったというのに、気の早い話だとも思うが、先にもらえる分にはありがたい。
「アザレアと同じ苗字!」
「あら、フィオちゃんとお揃いね! さっきこれがあったら、本を借りて持ってこられたんだけど……」
二人が互いのカードを見せあいながらわいわいしている傍らで、パントエールがもう一枚のカードを出してこちらに差し出してくる。自分の場合は「ハルト・ハードロック」で指名手配されているので、完全な偽名が提示されるだろう。
「ジョニー・ウォーカーねぇ……」
「気に入らない?」
「平凡過ぎてあからさまに偽名っぽいが、問題ない。そんなに身分証を出すこともないしな」
本来的には出入国の際や役所での申請などには必要になるのだが、いくらでも抜け道がある。自分はミラーにもらった偽造証で塩の大地に入国したわけだが、それでも入国できてしまったくらいだし、それ以外で身分証を求められたことは一度もない。
ただ、追われる立場の自分たちにとっては、一応これがあれば多少のごまかしにはなるだろう。そういった意味では、ないよりはありがたいものであるが――ふとフィオナの方を見ると、わなわなと肩を震わせている。
「ちょ、ちょっと! 私もウォーカーになってる!」
「生活を一緒にしているなら、そういう風にした方が自然でしょう? まぁ、貴女くらいの子供がいるにしては、ハードロックとアザレアは少し若いのかもしれないけれど……別におかしいことはないし」
「むぐぐ……アザレアがママなのは良いけど、ハルトをパパっていうのは嘘でも言いたくない……」
こっちだって願い下げだ、と言う前に、横から凄まじい気迫を感じる。そちらを見ると、無駄に真剣な様子のアザレアと目が合う。
「ご主人様も、ウォーカーなんですか?」
「まぁ、この書面上はそうだな」
「そうなんですね……はぅっ!」
変な声を上げながら、アザレアは凄まじい勢いで顔を机に突っ伏した。耳が真っ赤になっているところを見るに、また勝手にエキサイトしているようだ。
しかし、自分としてはこの身分証に納得はいかない。別に二人のことが嫌いなわけでもないし、パントエールが折角気を利かせてくれたところ申し訳ない部分もあるが――偽装の上でも誰かと同じ籍になるということに関しては、やはり避けたいのだ。
そう断りを入れようとパントエールの方を見ると、彼女は何か変なものでも見るような様子でアザレアと自分を交互に見ている。
「……前から疑問に思ってたんだけれど、そのご主人様っていうのは何なの?」
「俺がご主人様だからそうだ」
「はぁ?」
「それより、勝手で悪いが、俺だけ変えてもらうわけにはいかないか?」
「それは難しいわね。そもそも、ここの入居者をジョニー・ウォーカーとして申請しているのよ。誰かをメンバーに招く際に、身分ごと必要ならその名前で入ってもらおうと思ってね。
それに、偽造書類を作るのだって、無理を言って割り込ませてもらったから……」
「なるほど。それなら我慢するしかないか」
「えぇ、よろしく。あとは正式な契約書は、後日作成して持ってくるから」
「冷静に考えれば、きちんとした戸籍もない俺が契約書に署名するっていうのも、変な話だな」
「どちらかと言えば盟約と誓約。同意したっていう事実があれば、お互いに反故にしにくくなるでしょう?」
「それ自体にはあんまりこちらのメリットはないが……色々と良くしてもらうわけだからな。これからよろしく頼む、パントエール」
「えぇ。お隣さんとしても……そうね、こちらも我がままを一つ言うのなら、夜などはあまり騒がしくしないでくれるとありがたいわ」
それだけ言い残し、パントエールは「コーヒーご馳走様」と突っ伏したままのアザレアの後頭部に言って去って行った。フィオナは彼女に興味があるのか、玄関まで見送りをしに行ったようだ。
しかし、パントエールが隣に住んでいるとなると、あまりシュライクと大きな声で話すのは危険かもしれない。まぁ、ここ二日で隣からの生活音はそこまで聞こえなかったし、そんなに壁が薄いとも思わないので、変に騒がなければ大丈夫だとも思うが。
「……そういえばアザレア、どうして突然賛成になったんだ?」
相変わらず机に突っ伏しながら「うふふ」とか呟いているアザレアに声を掛ける。多分、パントエールが去ったことも、何なら途中からの会話も聞いていなかったに違いない。ともかく自分の声にアザレアはガバっと顔を上げて、辺りを見回している。「パントエールは帰ったぞ」と伝えると、ようやっと意識が現実に戻ったのか、アザレアはカップをちびりとして一息ついた。
「あの、一番はさっき言った通り、安全を確保するためなのですが……フィオちゃんが言っていた通り、パントエールさんは良い人だなって思いまして」
「なるほど……アザレアは詐欺とかに気を付けた方が良いな」
「えっ!? パントエールさん、もしかして何か私たちのことを騙してたんですか!?」
「いや、そういうわけじゃない。ただ単に、お前さんが素直すぎるってだけだ」
「はぁ……そんなこともないとは思うんですが……」
「……というか、決定要因がパントエールだったってことは、もしかしたらアイツに苦手意識があったのか?」
「い、いいえ!? そんなことはありませんけど!?」
あからさまに声が上ずっているので、図星だったのかもしれない。まぁ、一見するとパントエールはきつそうな印象もあるし、アザレアと性格的なタイプは正反対な気もするので、苦手意識があっても仕方がないかもしれない。
「そ、その、逆にですけど……ご主人様、昨日はパントエールさんと一緒に煉獄に行かれていたんですよね? 何かなかったですか?」
「そうだな。結構無鉄砲な奴だってことは分かった。どっちかって言えば、俺はセギュールとの魔術談義の方が……」
そこまで言いかけて、魔術書、解読、アザレア文字という連想ゲームで先ほどの書き置きを思い出す。




