2-27:アザレア文字解読初級編 中
「なんだ、何があったんだ?」
「朝起きたら、アザレアがいなくって……ハルト、知らない?」
「いや、特に何にも」
「それじゃあ、これ……」
フィオナから差し出された紙を受け取って見ると、そこには黒い、ミミズののたくったような何かが書かれていた。
「……なんじゃこりゃ?」
「私もさっき気付いた。昨日はなかったはず……多分、アザレアの書き置きだと思う。ハルト、読めない?」
「読めないかって言われても……」
そう言われて改めて書面に目を落とす。多分、文字なのだろうが――いや、文字というには潰れていたり震えていたり、規則性もなく、ともかく初めて見る象形文字と対峙させられているような気持ちになる。
「おい、シュライク。これ読めないか?」
「ふむ、どれどれ……」
リビングの机の上で丸まっていた人形がこちらへ飛んできて肩の上に留まり、目を細めながら紙面を眺める。コイツは人知を超えた知識を有しており、同時にその思考力は人のそれを遥かに超えている。そもそも、ノモラスの暗号を作ったのだってコイツだ。きっとこの程度の文字を解読することなど、造作もないに違いない。
だが――シュライクはどこか気まずそうに、紙面から視線を外した。
「……我輩にだって、分からないことぐらい、ある」
「なん、だと……」
普段は分かっていても「言われていなかったから」とか「面白そうだから」で済ます奴だが、この様子だと本当に解読ができないらしい。邪神をして読めない暗号を作るとは、アザレアという女はどこまで特異な存在なのか、ある意味では驚嘆に値すると言わざるを得ない。
「どうするの! ハルトが甲斐性なしだから、アザレア出て行っちゃったんじゃないの!?」
「あのなぁ……これが書き置きなんだとしたら、買い物に行ってきます、くらいのことが書かれてるんじゃないか?」
「実家に帰らせていただきますかもしれない!」
「いや、アイツの実家はどこだよ……」
まだアザレアの記憶は曖昧らしいし、帰りたくとも実家に帰るなどという選択肢はあり得ないだろう。まぁ、言われてみれば王党派に参加すると言ったら微妙な顔をしていたし、もしかしたらその辺りに何か思うことがあったのかもしれないが――自分でいうのもなんだが、彼女が自分の眷属である以上、恐らく一人で抜け出すということはないはずだ。
そうなれば、やはりここには「少し外に出てくる」くらいのことが書かれているに違いない。その割には妙に文章が長い感じもするが、アザレアのことだから書かなくてもいい情報をつらつらと書いているせいで、無駄に文章が肥大化しているに違いない。
ただ、どうしてもアザレアがいないことが不安なのか、フィオナは落ち着かない様子であり、何なら泣きそうに目を潤ませている。
「もしかしたら、私のことが嫌になっちゃったのかな? それで、いなくなっちゃったとか……」
「んなわけあるか。セスティナとやらにさらわれたときだって、俺が取り返しに行こうって言ったら、全力でうんうん頷いてたんだ。アイツ、お前のことを大事に思ってるよ」
なんなら、眷属として気持ちを縛っていないことを考えれば、アザレアのフィオナに対する情こそ本物と言っていいだろう。そこには打算のない、本物の情がある。
だが、なかなか自分に向けられている感情というものに対して人という生き物は鈍感なのか、自分が慰めてもフィオナは「でも……」と納得せず、変わらず泣きそうな表情をしている。
「はぁ……仕方ない」
「……ハルト?」
「コイツを解読してみよう。何か分かるかもしれない」
そう言いながら机へと移動し、持っていた紙を広げて、未解読文字と向き合う。アザレア語にアザレア文字、アザレアは独自の言語体系を持つ摩訶不思議な奴である――そんな風に思っていると、向かい側にフィオナが腰掛け、身を乗り出して紙を見つめる。
「探しに行く方が早いんじゃない?」
「それはそうかもしれないが、この広くてごちゃついている街の中を、目的地も分からずに探すのは無謀だしな。行き違いになったら馬鹿らしいし……何より、コイツはちょっと血が騒ぐ」
そう、読めない文字というものを見ると、鎖の魔術師としての血が騒ぐ。昨晩暗号の本を読んでいたせいもあってか、謎のやる気が湧き上がってきているのだ。
それに、どうせ少し待っていれば帰ってくる。これはそれまでの余興、新聞についているパズルみたいなものだ――本格的な解読のため、別の紙とペンを用意して、改めてアザレア文字に向き合うことにする。
まず、これは表音文字である可能性は極めて高い。古語や東方の地域には文字そのものが意味を表す表意文字というものもあるが、アザレアの生活圏では――彼女が元々は原典派であったことを考えれば――表音文字が使われるのが一般的だ。そうなれば、どの文字がどの音を表すかを判別するのが重要になってくる。
母音の音そのものを判別するのは難しいが、ひとまず「これが母音である」ということを仮置くことは比較的簡単な作業になるはず。子音と比べて出現頻度が高いため、それが母音であることは判断しやすい。
そう、本来はそのはずなのだが――。




