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嵐の予感

 その頃、教会でも崩壊の兆しが見え始めていた。



「……あれ?このカップ、誰のですかね」


 書庫の一角で、聖典を戻しにきた若い神官が声を上げた。


「ああ、さっきまでアルバ神官がいたな。安らぎ小屋(トイレ)かな?」


 隣で書類をまとめていた同僚が、顔も上げずに答えた。


「いや、アルバ神官なら、さっきラズロ神官に連れていかれたぞ」


「あ、そうなんですか。今日は泉の結界石の点検当番なんですけどね」


「ああ、それなら二人で点検しに行ったのかもしれないな」


「……それはよかった。あの人地下行くの、いつも嫌がるんで」


 興味を失ったように、同僚は再び羽ペンを走らせる。


「ラズロ神官は真面目だからな」


 若い神官も、それ以上は気にしなかった。

 机の上には、開きっぱなしの聖典。半分だけ飲まれた茶は、まだほんのりと温かい。

 だが、それを気に留める者はいない。

 まさか、聖女が王宮に上がったまま教会に戻って来ていないなどとは、まだ誰も聞いていなかったから。





 教会の地下墓地(クリプト)。結界石が安置された泉は、今日も変わらず静謐であるはずだった。


 ぽたり、と天井から水滴が落ちて水泡が割れ、その中心で何かが揺れた。


 ――ぐちゅ。


 濁った水面の下で、濁った影が蠢く。それは、澱んだ水の中から生まれた異形だった。


 水面が、わずかに盛り上がり、そこから現れたのは小さな骨ばった手。その異形のモノの目は白く濁り、(えら)に生えたヒレがチキチキと揺れる。魚のような口が呼吸するたびに、黒い靄が漏れている。


 ――瘴気。


 それが、水の中から滲み出るように広がっていく。


 ギョロリと白い目が左右に動き、輝きを失った結界石を見つけた。 歪んだ口元から、ぶくぶくと瘴気を吐き出しながら近づき、ペシ、と水掻きのついた手で石をはたき落とす。ぽちゃん、と軽い音を立て、結界石が泉の奥に沈んでいく。わずかな光が、悲鳴のように瞬き――そして、消えた。


「ギギ……」


 笑ったのだろうか。喉を潰したような声が、泉の中に沈む。


 石を失った台座は沈黙を貫いていた。





「……おや?誰かいるのか?」


 結界石の点検のためにやってきたのは、アルバ神官とラズロ神官だった。


「やめてくださいよラズロ神官!いるわけないじゃないですか。こんなとこに毎日来るのは聖女様くらいですよ」


 いつも通りの調子で、灯りを掲げて泉へと歩み寄る。


「その聖女様もここ数日、結界石を補充していないらしい。だから私が司教様に頼まれたんだ」


「え?聖女様、何をしていらっしゃるんですか?教会の結界石は毎日2回の補充が定められていて――ん?……なんだ、この匂い」


 鼻をつく刺激臭と、腐った肉のような生臭い異臭。澱んだ空気が重く神官達の肺にのしかかった。


「結界石は……」


 泉の中心に視線を向けるが、本来ならば淡い光を放っているはずの結界石が見当たらず、台座だけが残されているのを見て、ラズロ神官は顔色を変えた。


「結界石がない――!?」


 ラズロ神官が泉に走り寄る。結界石の不在に焦り、後ろに居るはずのアルバ神官からの返事がないことにも気が付かない。


「アルバ神官、大至急司教様に連絡を――」


 ――ちゃぷん。


 静かな水音が耳に届く。足元には打つはずのない波が泉の淵に寄った。


「アルバ神官?」


 ラズロ神官が振り向いた、その時にはもう遅かった。


 ――ぐちゃ。


 何かが、背後から覆いかぶさる。緑色の何かが見えたが、それを確かめるよりも早く灯りが消えた。


「ひ……っ」


 言葉は最後まで続かなかった。濁った指が肩を掴み、腐った牙がラズロ神官の喉笛を容赦無く噛み砕いた。


「――……が、ふ」


 ――その悲鳴は、ほとんど音にならなかった。


 泉の水面が、大きく揺れた。バチャバチャと魚が跳ねるような音がしばらく響き、そしてまた静寂が訪れた。






「……遅いな」


 ふと、若い神官が呟いた。


 すっかり冷えたカップは下げられ、聖典も棚に戻された。そろそろ夕方の祈祷が始まる。


「ラズロ神官、まだ戻ってきてないのか?」


「ああ。点検に行ったきりだ」


「またサボりじゃないのか?最近、下働きの見習いと仲がいいらしいぞ」


「神官にあるまじき罪深い男だな」


 軽い笑いが起きる。


「いや、アルバ神官と一緒らしいから」


「ああ、なるほど。それじゃあ説教でもされてるんだろう」


 誰も、何も疑わなかった。


 ――地下墓地(クリプト)の聖なる泉で、何が起きているかなど、知る由もなく。







 王城の廊下では、ベッドメイクをする侍女が顔色を悪くしていた。


「ねえ、最近空気が悪くない?」


「それって、聖女様とマイルズ王子のこと?」


 もう一人の侍女が、こっそりと相手の侍女に伺う。


「そうじゃなくて……空調が悪いのかしら。喉が痛くて」


「やだわ。風邪でもひいたの?聖女様に見てもらう?」


「……あの聖女様に?この前うちの班の子が火傷をした時『やだ』って言われてたの聞いた?」


「ああ、そう言えばそうだったわね……。あの方、もう聖女様じゃないのかもしれないわね」


「相手がマイルズ殿下だものね……。おかげで私たちはちょっと安心してるけど」


「はぁ。この国、どうなるのかしら……」


「そういえば、地方の領地から人がいなくなってるって話、聞いた?」


「え?逃げてるってこと?」


「逃げるにしても……結界のないところへ魔力のない私たちが逃げても、遠くまで行けないわよ」


「外の世界は魔獣が闊歩してるって本当かしら」




 そして王城の別の場所では、兵士が壁に手を突いた。


「おい、どうした」


「……ちょっと、目が霞むんだよ。頭も重くて」


 そう呟いた顔色も悪く、呼吸が浅い。


「飲みすぎか?」


「いや昨夜は飲んでない。でも……夜更かしが過ぎたかな」


「バカだな。弛んでるぞ。きちんと休んどけよ。健康管理も仕事のうちだぞ」


 小さな異変は、まだ問題として認識されていなかった。









 夜が更けても宿舎に戻ってこない同僚に、若い神官は流石におかしいと思い、一人地下墓地(クリプト)に向かっていた。


 かなり古い旧神殿の上に建てられた教会だ。地下に向かう階段は通路も狭くなっている。泉の湧き出る音が響いてくるだけで、かなり不気味な場所だった。


 しかもなぜか今夜は、生暖かい風がどこからともなく流れてくる。通路を進むにつれて、足場が悪くなり、生臭い匂いも気になった。この地下墓地には、神官や司教、敬虔な教徒の墓がある。その中心に湧き出る泉があり、そこに結界石は祀られているはずだ。生臭い匂いなど、一体どこから流れ込んできているのか。


「……おかしいな。ネズミでも死んでいるのだろうか」


 足音がやけに響く。それにやけに暗かった。喉の奥に、嫌な感触が張り付く。ごくりと、喉が上下した。


「ラズロ神官?」


 恐る恐る呼びかけるが、返事はない。


「いないか……」



 少しホッとして、神官は元来た道を戻ろうと振り返ったところで、ずるりと足が滑り尻餅をついた。慌てて立ち上がり、服の裾を整えようとしたところで、手のひらがねっとりと濡れていることに気づいた。


「……なんだ?」


 灯りを下げ足元を照らす。


 手が血で濡れていた。大量に床に巻き散らかされた赤黒い染みは、まだ完全には乾いておらず、泉に向かって広がっている。まるで、何かが引きずられたかのように。


「……こ、これ、ち……血!?」


 ぞくり、と背筋が冷える。

 何かが、ここで起こったのだ、と頭が理解する。どくどくと心臓が騒ぎ始めた。逃げろと頭の中で警鐘が鳴り響く。


「――あれは……?」


 視界の端で何かを捉えた。壁際に何かが転がっている。ネズミ、より大きい。だが犬ほどの大きさではない。

 震える足で近づき、ゆっくりと灯りを掲げた。


 明かりに照らされた、その塊は。


 ――腕だった。


 肘から先だけの、人の腕。


「――ひぃっ……!?」


 石壁に、夥しい血がべったりと張り付いている。その指に絡みついていたのは、銀の女神を象ったタリスマン。見覚えのあるそれは、全ての神官が身につけているもの。


「ラ、ラズ、ロ神官……?」


 声が震える。吐き気が込み上げて、嘔吐(えず)きそうになった、その時。



 ――ギ。



 背後で、音がした。


 恐る恐る振り返ると。


 ――複数の濁った白い瞳が、こちらを見ていた。







 王城、王の執務室では、宰相がまだ頭を悩ませていた。


「レッドウッドのロイドが三日ほど前に、数名の騎士と使用人を連れて旧公爵領に向けて出立しました。マイルズ王子殿下と聖女も共に向かいましたが、よろしかったので?」


 宰相が答える。


「……ああ、それなら問題ない」


 王がワインを傾ける。このワインもクランスヴァルトで作られた極上の赤。何本か追加で搬入しておこうと考える。葉巻も在庫があるならば、すぐに送るよう通達しておくか。そんな王の考えを遮るように、宰相が不満の声を上げた。


「しかしながら、聖女まであちらに送るのは予定外では」


「アレか。お前も知っているだろう。女になった聖女は、使い物にならんと」


「………そ、それではやはり、」


「あれは嘘だ」


 宰相は愕然とする。


「な……っ!?で、では結界は!?」


「結界はミスリルと聖水があれば問題ないらしい。教会は隠しているがな。あの司教は、王家を騙した罪で縛り首にでもしてやるが、察しのいい事に雲隠れをしたらしい」


「へ、陛下はそれをいつからご存じだったのですか!」


「……先日ドルティエがな。爵位返上の話をした後に教えてくれた」


「クランスヴァルト公爵が……?」


「ああ。娘の治療法を探している際に、昔の文献が見つかったそうだ。聖水は神官どもでも作れるだろう。だから、クランスヴァルトの領地をミスリル鉱山も含めて王家に寄越す代わりに、奴らを見逃してくれと取引をした」


「奴ら、とは?」


「家族と、領民どものことらしい」


「陛下、……陛下はそれを了承したのですか」


「ふん。鉱夫と農民が五百人ばかりしか住んでおらん土地だ。大した打撃にはならん。必要なのは、あそこの肥沃な大地と鉱脈だけだ。レッドウッド伯の息子でも、管理はできるだろう。鉱夫と農民は送らねばならんがな。平民など掃いて捨てるほどいる。聖女は――マイルズを管理できれば、それでいい」


 ――なんという、事だ。


 宰相は今になって、この案が破綻していることに気づき顔色を無くした。


 教会の嘘がバレたら、この国はどうなる? 敬虔な民は何を信じる?もし今、結界がないのだと知ったら。ミスリルは、あの土地に行けばいくらでも手に入るだろう。そして今、あの領地は誰も管理をしていない。そしてこれから管理をするのは、マイルズ第一王子。



 ――嫌な予感がする。







 その予感は、すぐ足元まで迫ってきていた。



読んでいただきありがとうございます。感想・ブクマもお待ちしています。

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