さよならクランスヴァルト
「これより、クランスヴァルト公爵領を出発する!皆、準備は整ったか!」
「おう!」
領地の北門に、領民が集まっていた。その数わずか五百ほど。それぞれが荷馬車や牛車を持ち、男は武器を、女は農具を手にしている。連れて行く家畜の方が数が多いかもしれないと思うほど。
クランスヴァルトの領地は広い。だけど、領民の数はそれほど多くはなかった。
なぜなら、ここには秘密が多いから。
この地には龍脈のおかげで魔素が多い。だからミスリルも穀物も果樹もよく育つ。国はそれを知らない。魔力は神に仇なす力との考えから、見て見ぬふりをしているのか、それとも気づいていないのか。
おかげで、魔力持ちの人間が密かに息ができる場所――それがこのクランスヴァルトだった。
豊かで肥沃な大地。厳かで美しいミスリル鉱山。結界に守られて育んできた生活。
それを、私たちは今日置いて行く。
前に進むために。
クランスヴァルト公爵領を囲む山々の稜線が、朝靄の向こうに淡く浮かんでいた。
国の境界から出た、街道へと続く場所で長い列が、静かに伸びている。家畜に荷馬車、鉱夫だった冒険者たち。農民達に、使用人、公爵家精鋭の護衛達。誰一人欠けることなく移動していた。その様子は大きな商隊のようで、少しだけ皆浮かれている。
その先頭に、クオレはいた。白馬の上でいつものように、軽やかに。
「……ここが、国境」
ぽつりと呟いて、手綱を引く。馬が止まり、列もゆっくりと足を止めた。
振り返ると、そこには自分が生まれ育った場所があった。
ミスリル鉱山の坑道。
トロッコの上にはまだ小さなミスリルが無造作に残っているのか、朝日を浴びてきらりと光った。
止むことのない煙を上げていた鍛冶場と小麦を挽いていた水車小屋。
雪解けの水害を防ぐための風車。
黄金に輝く小麦畑に、果実がたわわに実った果樹園。
石造りの屋敷と、走り回った畦道。
全て、今は静まり返っている。
「……ほんとに、出て来ちゃったね」
軽く笑う。
これは――敗北じゃない。逃亡でもない。新たなる冒険だ。自由への第一歩。クオレは清々しい朝の空気を肺にいっぱい吸い込んだ。
「私たちは、自由だ!」
おお――っと鉱夫たちが片手を突き上げる。
今や皆、冒険者のような格好をしていて、クオレは正直驚いた。鉱夫の大半は、何年も前から密かに冒険者として登録をしており、すでに活躍していたのだと、昨日知った。マリオンの持つ商隊を使って、狩った魔獣の毛皮や肉を連合国に売って金も稼いでいたし、山で採れた薬草も売り捌いていたらしい。流石に公爵領の作物や鉱石は、勝手に売り飛ばす事はなかったが。
「え、法に触れてない?」
「今更だな」
全員処刑される人間だったのを、秘匿していたのだから。
「既に大罪人だった!」
「もう俺たちは国を出た流浪の民だからな。関係ない」
クオレが冒険者になるのは、新しい住処についてから。それまでは、みんなと共に行動をして、冒険者たるやを学ぶ予定だ。
だから、きっと。
これまでも楽しかったけど、これからも、きっと楽しい。
「グッバイ、故郷よ。今まで育ててくれて、ありがとう!見ててちょうだい。このクオレ様、きっと立派な冒険者になってみせるわ!」
「それでこそ、お嬢だ!」
「目指すはドラゴンライダーだ!」
「治癒師でもいけるぞ!」
ワイワイとうるさく騒ぐのはいつもの事。皆の顔に笑顔が浮かんでいる。
クオレティーナの横に、ドルティエが並んだ。その目は故郷を見ている。
「未練はあるか」
短い問い。
クオレティーナは少しだけ考えて、首を横に振る。
「ううん。だって全部、持ってきたもん」
そう言って、振り返る。
人、人、人。
公爵領の領民だった人々。未来に向けて前を向く人々。それが、答えだった。
ドルティエは一瞬だけ目を細めて、ふっと息を吐く。
「……そうだな」
その後ろから、マリオンが馬車から降りて、歩いてきた。
「寂しくはあるけれどね」
「お母様は泣くかと思ったわ」
「泣く暇があったら、狩るわね」
くすっと笑う。元商人だった母も冒険者になっているらしい。
「最後よ。見納めておきなさい。あなたを守り育んだ、我らが領地を」
「はい」
きっともう、戻ることはない。でも、後悔はない。
「お嬢―――!!」
後方から、いつもの騒がしい声。鉱夫たちが手を振っている。
「早く行こうぜ――!!新天地だァ!!」
「肉はあるぞ――!!」
「酒もあるぞ――!!」
「お酒まで持ってきたの!?」
「残してくわけねぇだろ!!王家の奴らに一滴たりとも飲ませるもんかよ!」
「正論!」
クオレは楽しそうに笑った。空気が軽い。誰も下を向いていない。
それが、嬉しい。
自分のせいで生まれ故郷を離れる人もきっといる。
でも誰もそれを言わない。みんな笑顔で、新天地を目指している。
「ねえ、お父様」
「なんだ」
「次の住処、楽しみね!」
「ああ。目処は立ててある」
「もう?」
「ここから西に約1ヶ月――急ぐ理由はないから、下手したら2ヶ月かかるかもな」
「2ヶ月!じゃあ、野営もするのね?!狩りは!?」
「もちろんだ。弱音は吐くなよ?」
「吐かない!私にも狩らせて」
「お前は、冒険者になるまでは薬草摘みだ」
「えーーーっ!そんなぁ」
いつものやり取りに、周囲から笑いが漏れる。
ふ、と。
クオレの瞳が、ほんの一瞬だけ変わる。瞳孔が縦に細長くなる。視線が山の中の、深い森を眺めた。さらにもっとずっと深い、闇の中。
「……動いた」
小さく、声が漏れた。
「クオレ?」
マリオンが訝しげにクオレを見た。その表情のない顔にどきりとする。
「ん、なんでもないよー」
パッとクオレティーナは笑う。いつもの顔で。マリオンは少し目を細めた。
クオレはそれ以上、何も言わない。でも、瞳の奥が語る。微かに感じる龍脈の流れ。こちらに向かってくる気配がする。それはゆっくりと確実に、追いかけてくる。
流れが変わる。
反動が来る。
けれど。
「まあ、しょうがないか」
あっさりと頭を振り、意識を切り替えた。その顔に先ほどのような無感情な表情はもうない。いつもの明るいクオレだ。マリオンはしばらくクオレを見ていたが、視線を外し、再度出てきた国を見た。
いつまでこの風景が、この世界に留まっていくのか。次はもう、ないかもしれない。そんな予感を胸に置いて。
「なるようにしか、ならないわね」
そうクオレに返していた。
ん?と首を傾げるクオレに笑いかける。
たとえ娘が、どんな宿命を背負おうと。
私たちの態度は変わらない。一緒に同じ風景を見つめていくだけだ。
「よーし!出発するぞ――!!」
ドルティエが手を挙げる。
「「「おお――!!」」」
歓声が上がり、列が再び動き出す。クオレは最後にもう一度だけ振り返った。
「……さよなら、クランスヴァルト」
誰にも聞こえない声で。
そう呟いて――
前を向いた。
クランスヴァルト領の無人となった鉱山の奥深く。
かつて人の手で整備された坑道から、ミスリルの輝きが途絶えた。まるで光源が消えていくように暗く、闇に染まっていく。
ずるりと地面が形を変えた。闇がその色を濃くし、境界を曖昧に塗り替えていく。地面の下から、ぼこり、ぼこりと何かが生まれた。
「ギ……」
小さな生き物とは呼べないような何かが、音もなく増えていく。闇に紛れて、姿を隠していく。
ぽたり、と黒い雫が落ちた。
それはゆっくりと広がり、やがて壁を這い、地面を満たし、静かに脈打ち始める。
――何かが、目覚める前触れのように。
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