王都の残響
元宰相ドイルは、瓦礫の積み上がった王都をヨロヨロと一人で歩いていた。
王族の避難路を通って出てきたところは、内苑の古い井戸の中だった。そこにかけられた梯子を這い上がり、魔物を避け、慄きながらも宝物庫に忍び入った。魔除けと名のつく宝を片っ端から身につけ、錆び付いて抜けない宝剣を手にして急いで帝国を目指そうとした。
かつて栄えた街だった場所は、今や見る影もない。建物は崩れ落ち、火の手が上がっている場所もあれば、死体で埋め尽くされている場所もある。時折見かける魔物は腹が膨れたのか、動きが緩慢になっており、なぜか西に向かって歩き始めていた。
「……クランスヴァルト領の方向か」
公爵領は、無事なのだろうか。あそこに向かった方が、得策なのかもしれない。いや、マイルズのバカが治めるような土地に行っても、いいことなど何もないだろう。
魔物に食い荒らされた残骸なのか、人々が争った痕なのか。生きた人間の姿はまばらで、吹き抜ける風だけが乾いた血の匂いを運んでいた。怪我をして動けないものが、水を求めて呻いているのを横目に、ドイルはおそらく大通りだった街道をまっすぐ歩いていく。
王は生き延びただろうか。
確かめる術はない。もしかしたら、なんとか生き延びて水路から抜け出したかもしれないが。
「……ふ。もう、終わったことだ」
思わず零れた呟きは、自分でも驚くほど軽かった。たとえ生き延びたとしても、ジャイルズはもう王ではない。勝手に生きればいい。
王を支えた。
国を支えた。
危機感のない馬鹿な貴族をなだめ、暴走する教会を抑え、愚かな王子たちの尻拭いを続けてきた。だが、結局はこの有様だ。公爵に見放され、神に見放され。
――ならばもう十分だろう。
老いた身でこれ以上何を背負えというのか。ドイルは肩に掛けた荷袋を握り直した。中には金貨と身分証明に役立つであろう書類、教会の悪事や王国の秘匿すべき書類などが入っている。帝国で、どこまでが必要とされるか分からないが。
「この国の情報なんぞ、もう必要とされないか……」
それでも、新しい土地で生きるために必要なものだけを選んだ。
国などもう知らない。
王家も知らない。
あとは生き残るだけだ。私一人なら、帝国も受け入れてくれるはずだ。
「美しいでしょう」
静かな、だがどこか感情のない声が聞こえた。ドイルはサッと物陰に伏せた。目を伏せて息を顰める。この状況で聞きたい声ではなかったからだ。
「ねぇ、王妃様。ほぅら、こんなに綺麗に着飾ってあげたのに。どうして返事をしてくださらないのですか」
背筋を冷たいものが伝った。
教会の平和のシンボルとされた大きな聖樹が、教会があったであろう場所に静かに佇んでいる。
その聖樹に、王妃は杭で打ち付けられていた。両手首を一つにまとめ、頭上で打ちつけられ、胴体にも1本、両足首に、1本ずつ。両目は抉られ、足首のその先は見当たらない。手指も全て切り落とされ、口の中に詰められていた。
そばに転がるのは割れた鐘と、近衛騎士の血まみれの死体。
――ああ。王妃も逃げ損ねた。
こんな、王城の近くで自分が最も忌み嫌った、側妃の息子に弄ばれたのか。最も残酷な方法で。
「隠れてないで、出ておいでよ」
第2王子であるルーカスが振り向きもせず笑った。手にしているのは、近衛の剣とどこかの鍛冶場から持ってきたであろう金槌だ。ドイルにとって最も死んでいて欲しかった人物が、まだ息をしていた。
「我が唯一の友である、宰相ドイル」
ドイルの喉がひくりと鳴る。
「……ルーカス第2王子殿下」
「違うだろ?」
ルーカスは立ち上がった。
「僕は王太子に任命されたんだよ?忘れたの?」
そう言って笑った8歳の王子の顔に浮かぶのは、狂気。
3歳で自分の母親の乳房を食いちぎり殺した王子。それを隠蔽したのはドイルだった。乳母を塔の上から突き落とし、食事を持ってきたメイドを甚振ってバラバラ死体にした時も、ドイルが後始末をした。それ以来、ルーカスの中では、ドイルは「良い大人」に分類された。
「王妃様が返事をしてくださらないんだ」
ドイルはごくりと言葉を飲み込んだ。
狂っている。
もう、ずっと昔から狂っていたのだ。それを隠し、生かしたのもドイルだ。母親である側妃が陛下の寵愛をなくして狂ってしまい、お前さえいなければとルーカスを虐げた。哀れな幼い子供だと思い、生かした。それが思い違いだったと気づいた時には、手に負えない少年になっていた。
王妃を殺したのはルーカスだ。今更驚くべきことではない。皆魔獣に殺された。誰に殺されたかなんて、些細な違いだ。
だがルーカスは本当に不思議そうな顔をしていた。
「機嫌を損ねてしまったのだろうか」
「……」
「女性というのは難しいな」
ルーカスは困ったように笑った。
その顔はまるで年相応で。自分はずっと、彼の狂気を見ないふりをしていただけだった。
「殿下」
「うん?」
「ここでお別れです」
「お別れ?」
「私は、この国を出て行きます」
ルーカスはきょとんとした。まるで意味が分からないと言いたげだった。
「国を出る?」
「はい」
「どうして?」
ああ、とドイルは思う。このかわいそうな少年は、何も見ていないのだ。自分の描く美しい世界に閉じこもりそこで生きている。この優しくない世界は彼のために存在していないのだ。
「……この国は、もう終わりました」
初めて口にした本音だった。
ルーカスは黙った。
辺りを見渡し、王妃を見上げた。
「王妃様。宰相が国を出ていくんだって。許してもいいの?」
ドイルは、ぎくりとして身構えた。あの狂気を自分に向けるのならば、ここで決別をしなければならない。たかだか8歳の王子だ。いくら衰えたとはいえ、子供に負けるほど弱ってはいない、はずだ。
だが、ルーカスはくつくつと笑い出した。
「そっか。僕が王になるから、父上も宰相も王妃様も、みんな隠居するんだね。それなら仕方ないのかな」
じゃあ、僕は新しい家来を見つけないといけないのか、とまた辺りを見渡した。
「クオレティーナ様は僕のお嫁さんになってくれるかな」
「……どうでしょう。……公爵領にいらっしゃるので、お尋ねしては?」
「……そっか」
「はい」
「嘘つきだね、ドイル」
一瞬目を見開いて、息が止まりそうになる。公爵が領民ごとこの国を離れたことは、会議にも夜会にも出席していないルーカスは知らないはずだった。冷や汗が背を伝う。
「クオレティーナ様は、僕のお嫁さんになるのはきっと嫌だと思うよ。だって、兄上が公爵領に行ったのはクオレティーナ様と一緒に暮らすためでしょう?」
僕がその前に兄上を殺して仕舞えばよかったのだけど、あいつ、逃げ出しちゃったから。
風が吹いた。
王妃の髪がザワザワと風に靡いた。
「でもいいや。クオレティーナ様、細くて弱そうで直ぐにも死んじゃいそうだったから面白くなさそうだし」
ルーカスは両手を広げた。
「僕これから、この国を理想の国に仕立て上げるんだよ。だからお妃様はまだいいや」
その笑顔は、幼い子供のようだった。
「やっと王太子になれたんだ。もう、誰にも文句は言わせない」
ルーカスは笑いながら、そばに落ちていた近衛騎士の折れた剣を拾った。
そして何の躊躇いもなく、王妃の胸へ剣を押し込んだ。ドス黒い血は、噴き出す事無くじわりと滲み出るだけで、地面にも滴らない。それを見て、ルーカスはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「王妃様もそうしなさいって」
ドイルは目を瞑り、何も言わなかった。
言うべき言葉が見つからなかった。
「……では、私は先を急ぎますので」
そう言って踵を返す。
背後からルーカスの声が聞こえた。
「ドイル」
ドイルは立ち止まったが、振り返らず、耳を傾けた。額から流れ出す汗は止まることなく、心拍が上がる。
「また会えるかな」
震える手を隠し、わざと咳払いをした。
「それが、運命ならば。お会いすることもあるかもしれませんね」
ドイルはそのまま歩き出した。汗が噴き出してくる。
早く。
早く逃げなければ。
この場から。
この国から。
あの狂った王子から。
振り返れば最後、自分はまたこの国の亡霊に捕まる気がした。
背後でルーカスの忍び笑うような声が響いてくる。その声は、まるで瘴気のように、いつまでもいつまでも王都の瓦礫の間を彷徨っていた。
ルーカスは苛烈な母親にいじめ抜かれたことで、加虐性に目覚めています。結果、母親を食い殺したことから危険視され幽閉されたことを逆恨みし、女性は敵と見做していました。犠牲になったのは全て(ルーカスから見て)母親に近い年齢の女性のみです。
逆にいろいろ証拠隠滅のために走り回っていた宰相ドイルを「すごいいいやつ」と考えてました。




