届かない司教の祈り
スカラベって、黄金虫じゃなくて糞転がしですよね……。
その頃、司教と尊ばれていた男は、時計塔の管理室に隠れ住んでいた。
王城の次に高い塔の上に、下界の喧騒はそうそう届かない。とはいえ、時刻通りに鳴る鐘が司教に頭痛の種を運んできていた。今もまた、時を告げる鐘の音に頭を枕の下に隠して蹲っていた。
「この国はもうおしまいだ。神の怒りに触れたに違いない」
口に浮かぶ白い泡は、その狂気を表していた。
塔の下で、魔物が闊歩し、人々が成す術もなく襲われ、逃げ惑っていることも司教の耳には届いていない。その頭を埋めるのは、国にいいようにあしらわれ聖女に裏切られた怒りと、築き上げてきた理想の世界が壊れていく事に対する虚無感だけ。
どうしてこんな事になったのか。聖女は使える駒として十分に調教してきたはずだった。それが、どうして。
「聖女なんかじゃなかったんだ。あの女は、神ではなく、魔性のものが送り込んだのに違いない」
だから、神聖力をうまく使えず、怠惰で、男を籠絡する事だけはうまかったのに違いない。自分はまんまと騙された愚かで可哀想な生贄だった。
「神よ。なぜ、敬虔な使徒である私にこのような試練を授けるのですか!」
こんなに神を尊び、敬い、布教に勤しんできたのに。
……確かに、多少はその献金を自分のために使った。見た目を整えなければ、誰も敬うことなどしないから。
時計塔の最上階には司教の秘密の部屋がある。そこに隠し持った金銀財宝と金貨の入った箱が所狭しと押し込められていた。両手をみれば、それぞれの指を飾る大粒の宝石が目に入る。すでに長年蓄えた肉にめり込んで外すこともできない宝石で、奥歯は金でできている。こればかりは誰にも奪われずに済むと考えたからだ。
「これは、私の努力の結晶なのだ。誰にも奪われてなるものか。これまでの神に対する信心を象徴する私の心の輝きでもあるのだから」
だが、もう神はいない。
聖女がマイルズにその神聖を捧げた時に。或いは、王都を離れて公爵領に向かったその日に。いや、聖女だと思ってレイアを拾ったあの時に。
ほんの少しだけ。
心の奥底でふと戻った正気に、神聖力について騙った時には、すでに神は我らを見放したのかもしれないと思いが過ぎったが。それはすぐに曇り、欺瞞に飲み込まれていった。
司教には、魔力がなかった。いや、昔はあったのかもしれないが、もう使い方すらも覚えていない。有能な神官たちに任せておけば、この宗教は成り立っていたから。この国を取り込み、貢がせた。
魔力なしと虐げられた人間は、面白いように神に縋った。我らこそが神に選ばれた人間なのだ、と語れば語るほど、奴らは驕り高ぶっていった。努力を忘れた人間が堕落するのは早い。魔力を持った人間をこの国から追い出し、結界に守られたこの国で栄華と平和を満喫した。
「……長すぎたのだ」
いつからだったのか。食べ物は豊富で、天候は穏やか。魔物の脅威も病の脅威にも晒されなかった。平和に慣れ、努力を忘れ、怠惰になった。
怠惰だったのは、聖女だけではなかった。飼われて食肉にされる豚のように、贅沢を貪り何も考えず、そして朽ちていく。皆が皆、ゆっくりと静かに死に向かって歩んでいた。運命とはそういうものなのだろう。
――だが、私は違う。
「こんなところで、終わってたまるか……」
――私は、司教だ。神に選ばれた人間だ。
「神よ……!どうか我を助け給え!このように死んでいく魂ではないはずだ!神よ!」
ゴーン、ゴーンと鐘が鳴り響き、それが奥歯を軋ませる。
「うるさい!黙れ、黙れ!」
余韻を残して鳴り止んだ鐘の音の後に、カサカサ、と何かが蠢く音がした。ピクリと司教の耳がそれを拾う。
「……?」
カサカサ、と天井から響く音に咄嗟に浮かんだのは、隠し持った財宝の小部屋だった。
まさか、時計塔の天辺まで登ってくる者がいるとは考えにくい。だとすれば鳥か、虫の類だろうか。小窓には扉はない。中に入り込むことも可能だろうが。
念のために司教は重い腰を上げた。
「私のものだ……あれは、誰にも渡さない」
ハシゴのような階段をギシギシと軋ませて登り、部屋の鍵を静かに開ける。
目の前に広がったのは、金貨の袋から溢れ出てくる宝石のような色合いの虫だった。
「スカラベ……?」
教本にも載っていた黄金色の虫に似ている。よく見れば、金貨を貪っているではないか。
「おい!それは私の金貨だ!食うな!」
慌てた司教は甲虫を掴み、床に叩きつけて踏み潰した。だが、甲虫は一匹ではない。金貨の袋から湧き出てくる甲虫は金貨だけでなく、宝石にも向かっていった。隠し持っていた宝冠にも、女神を象ったタリスマンにも群がっていく。
「や、やめろ!やめろ!これは全て私のものだ!」
半狂乱になって、甲虫を踏みつけるが、ブーンと飛び回る甲虫は司教の指輪にたどり着いた。一匹。二匹。数匹は司教の靴についた宝石に群がり始める。ベルトの宝石。金ボタン。懐中時計に金の鎖。
蹴り飛ばし、腕を振り回し、宝箱を胸にかき集め抱き抱える司教に向かって甲虫は容赦無く襲いかかった。
「私の!私のものだ!触れるなぁ!」
叫んだ司教の口の中にも潜り込んだ甲虫を噛み潰し、吐き出すものの、甲虫は止まらない。肉を食まれ指を噛み落とされても、司教は自分の宝物を離そうとはしなかった。
「うギャァァッ!離せっ!離せぇぇ!」
カサカサと司教の体ごと覆い尽くした甲虫は、容赦無く財宝と共に司教の体をも貪っていく。
「あ、ああ……、か、神よ……なぜ」
小窓から覗いた太陽の光に何を見たのか。
最期に司教の口元が動いたが、口の中に入っていた甲虫が頬を食い破り飛び出してきたことで、言葉にはならず息だけが破れた頬から吐き出された。ものの数分で、司教の太った肉体は骨となり、後に残ったのは、相変わらず宝石に群がる甲虫の羽音だけ。
甲虫は鐘楼も食い尽くし、静まり返った時計塔はもう何の音も奏でなかった。
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