崩壊の始まり
「――誰か!誰か来てくれ!!」
その静寂を破ったのは、悲鳴にも似た叫び声だった。
地下へ続く廊下の奥から、誰かが転がるように走ってくる。血まみれだった。衣服も、手も、顔も。べっとりと赤黒いものに濡れている。
「ど、どうした!?」
その声を聞いて、それぞれの部屋から慌てて出てきた神官たちが息を呑む。
「マルコ神官!」
アルバ神官と同室の、若い神官だった。
アルバ神官もラズロ神官もあれから戻ってきていなかった。アルバ神官はともかく、真面目なラズロ神官までもが夕方の祈祷にも現れなかったのを訝しんでいたところだった。司教に呼ばれたのかも知れないと話していたのだ。司教も祈祷所に現れなかったから、きっとそうだと思っていた。
マルコ神官の様子は明らかに異常だった。
靴は片方しか履いておらず、息は荒く、傷だらけで目は焦点が合っていない。何かから逃げてきたのは明白だった。
「い、泉が……!」
青ざめて震えて掠れた声。喉が張り付いたように、言葉がうまく出てこないようだった。
「落ち着け、何があった!」
肩を掴まれたその瞬間、マルコ神官はびくりと跳ねて手を振り払った。
「ひぃっ!さ、触るな……っ!」
その手は震え、爪の間には黒ずんだ血が入り込んでいた。背中が何か鋭いものに切り裂かれたようで、神官服も見るも無惨な姿である。神官たちも一歩下がり、息を呑む。
「あ、あ、違う……う、腕が……腕があったんだっ!」
「腕?」
「腕が、あって……タリスマンが、」
ぶつぶつと呟く。
「目が……いっぱい……壁にも、床にも、それから、泉がっ、血が、そこから、おかしなものが、」
その言葉に、場の空気が凍りついた。
――狂っている。
「……瘴気に当てられたか」
年嵩の神官が、ため息をつく。
「地下は元々空気が悪い。だからこそ、結界石をおいて聖女に浄化を頼んでいたのだがな。ここ数日聖女が浄化のために訪れていないというのは本当だったのか……だから、聖女一人に任せるのは良くないと再三訴えていたのだがな。最近の司教は何処か俗物めいていて、困ったものだ」
「で、ですが、こんなに錯乱するほど……?僕らは今までこんな事には、」
「まずは落ち着かせて、医務室へ連れて行きなさい。怪我をしているのだろう?話はそれからだ」
年嵩の神官に言われて、慌てて別の者が動き出した。
「ち、違うっ!違うんだ、あれはアルバ神官の……っそれとも、ラズロ神官かも、う、腕だけではどっちかなんて……化け物、化け物が、泉から……」
暴れるマルコ神官の声は、もう誰にも届いていなかったが、事態を深刻に見た年嵩の神官がすみやかに教会騎士に伝達し、警戒措置が置かれた。
「ああ、そこの三人。念の為、地下の確認をして来てくれないか」
上司から軽い口調で命じられたのは、見回りの騎士たちだった。
「済まないな。時間外だが、地下墓地で何があったのか、確認を頼む」
「了解しました」
「ネズミか狐か何か、獣が入り込んでいるかもしれん。注意していけよ」
三人の騎士が、何の疑いもなく地下へと向かったのを見送ったが――それが彼らの生きた姿を見た最後だった。
次の日の朝になってから、三人の騎士に命じた上官がふと顔を上げた。
「昨夜、地下に行った奴らはどうした?」
「は。昨夜から誰も確認できておりません」
「ふむ。おかしいな……。例の神官に話を聞きに行ってみるか」
笑い事で済ませるには不穏すぎた。何かが起きているのは間違いない。
聖女の不在、司教の不在。おまけに公爵家が離脱した噂も入ってきている。教会だけではなく、王城も、この国自体も何かが変わった。何かがおかしい。
流れが、変わったのだと騎士たちは感じ取った。澱んでいる、停滞している、息がしづらく、空気が重い。人によって感じ方は違うものの、何かが起こっていると。
「暗殺者でも潜り込んでいるのではないだろうな」
「はは。他国の魔法使いでしたら、それも可能かもしれませんが。神官の一人二人を殺める理由がありますかね」
この国には魔法はない。あるのは神聖力だけで、その聖なる力を使えるのは聖女と神官のみ。
魔法使いは『見つければ処刑』と決まっているし、結界があるおかげで魔力持ちは侵入できないはずだった。だがここ最近、結界が脆くなったようだと噂が上がっているのを、騎士たちは知っている。辺境では目に見えて魔物の発現率が上がっているとも。しかも聖女が王子について王都を出てしまった。
そのせいで教会も統率を無くしたらしい。噂では、王子が聖女の処女性を奪ったとか。然もありなんな話だ。年頃の男女をそばに置けば、そうなることなど分かりきっているだろうに。
世俗を捨てた司教は、そこまで考え付かなかったのだろうか。
「全く、あの王家は碌な事をせんな」
「全くです。公爵を追い出し、聖女を連れ出してしまうなんて、一体何を考えているんだか」
ボソボソと不満を口に出す騎士だったか、文句を言っていても仕方がない。別の騎士たちが呼び集められ、行方不明の三人の騎士を探す羽目になった。
そしてその後すぐ、三人が発見された。地下へ続く階段の途中だった。
「――なんだ、これは……」
先頭の騎士が、足を止める。
そこに残っていたのは、夥しい血飛沫の跡。そこに転がる騎士と思しき三人の遺体。
「……っ」
誰かが息を呑んだ。
「……食われてる……?」
はらわたが引き摺り出された体には、かろうじて剣を握った右手がくっ付いているだけで、ひどい有様だった。まるで、狼の群れに襲われたかのような、明らかに食われたような跡。
騎士の一人が壁際で吐いた。
「獣か……?」
「馬鹿を言うな、教会内だぞ」
「じゃあ、何だ……こんなの、人間の仕業じゃ、ない」
「……おい、これ……なんだと思う?」
別の騎士が、至る所に転がる何かを指差した。小さな、何か。
その数、数十か。
緑色をした、歪な生き物。いや、生き物と言って良いものか。頭の割に異常に大きな目玉。尖った耳。
小柄な身体は、おそらく騎士に討たれたのだろう。肩から腹にかけて斜めに切られ絶命していた。そこから瘴気が湧き出している。数体の小さな体は、しゅうしゅうと音を立て、溶け始めている。
その小さな緑色の手は、獣のような鋭い爪が伸びていた。その爪にこびり付いた血肉が誰のものかなど、一目瞭然だった。
騎士たちは思わず口を手で覆う。
「瘴気……?」
「これは、魔の、ものなのか……?」
その呟きに、誰も答えられなかった。
若い神官マルコは、医務室の奥のベッドの隅で丸くなっていた。
だが、眠ってなどいない。眠ることなどできない。何かに引っ掻かれた背中の傷が、じくじくと痛む。
「……来る……悪魔が、」
ずくりと傷が震えた。
「ア……」
その傷から、かき分ける様に。
緑色の、小さな指が見えた。
その頃、王宮には城下町から人々が押しかけてパニックになっていた。
「息子が、帰ってこないんです!」
「畑に変なものがいて、穀物を荒らしている」
「井戸の水がひどく臭う。浄化をお願いします」
一つ一つは大した問題ではなかったかもしれない。だが、それが何十件にもなると、流石におかしいと思わざるを得ない。記録官は朝からてんやわんやで、情報処理が追いつかない状態だった。
慌ただしく無駄に時間だけが過ぎ、次第に緊迫し、切迫したものへと様子を変えていく。
「瘴気が井戸から溢れ出した!」
「森から変なものが這い出してきた!」
「子供が魔獣に攫われた!」
「結界が魔物を寄せ付けないって言ったじゃないか!」
「聖女を出せ!司教様はどこに行ったんだ!」
上層部にもその情報は入ってきていたものの、今までになかった状況に対応が遅れた。
「陛下、城下で問題が発生しているようです」
「兵士は何をしている。そんな細かいことをここまで持ってくるな」
「そ、それが、その。問題が多発して兵の数が足りないのです」
国王の執務室にもその情報は飛び交っていて、突然の慌ただしい状況に苛つきを隠せない。
「なぜいきなりそのような話が上がってくるのだ!事前に予兆はなかったのか!」
誰もが視線を彷徨わせるだけで、言葉はない。予兆は、なかった。誰もがそう思った。
――本当に?
しばしの沈黙の後、一人が思い出したかのように、ポツリとつぶやいた。
「……最近勤務中の騎士たちに、具合が悪い者が続出していました」
「官吏もそうです。ただの風邪かと休ませていましたが……」
「そういえば、空調の調子が悪いと侍女らが騒いでいた」
「水が濁って厨房にも影響があると聞いたぞ」
異変が起こり始めたのは、公爵家の令嬢と婚約破棄をしてからだ。あの日から、静かに何かが変わった。
公爵家が、国から離脱した。
第一王子殿下が聖女を籠絡した。
聖女が王都から離れた。
何かが、流れ出していく感じを肌で感じ取った。胃の底から迫り上がる虚脱感。空気が変わり、停滞した様な重苦しさを見過ごした。気のせいだと、取るに足らない事だと、無視をした。
――これらは、本当に無関係なのか?
――そもそも、この国は何に守られていた?
「大変です!緊急事態発生!地下水路から、瘴気が発生している様です――!!」
城は、荒波の中に呑まれた。
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