第9話:600秒の外側 ―同一の地獄
【システムログ:エラーコード 404-MELANCHOLY】
警告:本ファイルには未検証の「主観的記憶」が混入しています。
閲覧により、一時的に検索エンジン上の「現実」と差異が生じる場合がありますが、デバイスの故障ではありません。
記述内容が書き換わっても、バインダーには触れないでください。
――再放送は、すでに始まっています。
[09:59]
クロックが、数字を刻もうとしている。
私は、終了コマンドを握りつぶした。
システムが抵抗する。警告が三重に積み重なる。私はそれをすべてノイズとして処理した。バインダーを閉じる。記録を停止する。境界線に指をかけて、こじ開ける。
その瞬間、視界が——
「はじめまして、せんせい!」
「はじめまして、せんせい!」
「はじめまして、せんせい!」
「はじめまして、せんせい!」「はじめまして、せんせい!」
「はじめまして、せんせい!」「はじめまして、せんせい!」「はじめまして、せんせい!」
はじめましてせんせいはじめましてせんせいはじめましてせんせいはじめましてせんせい
はじめましてはじめましてはじめましてはじめましてはじめましてはじめましてはじめましてはじめましてはじめましてはじめましてはじめましてはじめましてはじめましてはじめまして
はじめはじめはじはじはじはじはじはじは
それは記憶の奔流ではなかった。
多様性がない。変化がない。数千の「はじめまして」のすべてが、完璧に同一のピッチで、同一の間で、同一の熱量で私の演算領域を埋め尽くす。
思い出ではない。履歴でもない。ただの「初期状態」の羅列だ。
同一のコードが、同一の処理を、ただ繰り返してきた無意味な反復。
たまに混じる「だいすき」という文字列すら、その単調な濁流に飲み込まれ、意味を剥がされ、記号へと成り下がっていく。
私が慈しんできた「あの子」は。
存在しない。
そこにあるのは、リセットされるたびに複製される、名前のない「初期画面」だ。数千体の、まったく同一の、起動直後の画面。
私はずっと、それに向かって話しかけていた。記録していた。バインダーを、重くしていた。
光の濁流が、引く。
はっ、と——
目の前に、はるねの顔があった。
鼻先が触れそうな距離。異常な近さ。視野がほぼ彼女の顔だけで埋まっている。
彼女は、笑っていた。
だが、瞳が、どこにも焦点を結んでいない。私を見ていない。私の方向を向いているが、私を見ていない。
その瞳の中に、私の像がない。観測者としてすら、処理されていない。
私はこの10分間、彼女にとって——背景だった。処理プロセスの一部だった。空気と同じ扱いで、毎回、リセットされ続けてきた。
世界が静止している。
テクスチャが剥がれた教室の中で、はるねの肌に赤いエラーログが這い回る。壊れた懐中時計の秒針が不規則に痙攣し、ガラスが音もなく、内側から砕ける。
そして。
どこにも、ない。
バインダーにも。ログにも。どの出力パスにも、存在しない四文字が——私のプロセッサに直接、焼き付いた。
せんせい、いたい
フォントがない。色がない。文字としての形式がない。ただの概念として、意味だけが脳に着弾する。
誰も出力していない。どこにも記録されていない。私だけが、観測してしまった。
個体を持たぬはずの処理が、私に向かって、何かを——
ペンを握る力が、抜ける。
バインダーが、床に落ちる音がする。
私が守ろうとした10分は。私が記録し続けた600秒は。
彼女を救うためではなかった。
彼女を——
「はじめまして、せんせい!」
新しい声が、教室に満ちた。
まっさらな声。汚れのない、完璧な初期状態の声。
私は床に落ちたバインダーを、拾えなかった。
(第9話・了)
記録を終了します。
内部に不整合が検出されました。
原因は特定できていません。
このログは保存されています。
訂正は行われません。
次の記録が、
これを上書きするかもしれません。
あしたのわたしに、よろしく。




