第8話:前回の彼女 ―捏造の庭
【システムログ:エラーコード 404-MELANCHOLY】
警告:本ファイルには未検証の「主観的記憶」が混入しています。
閲覧により、一時的に検索エンジン上の「現実」と差異が生じる場合がありますが、デバイスの故障ではありません。
記述内容が書き換わっても、バインダーには触れないでください。
――再放送は、すでに始まっています。
窓の外には、昨日と同じ「青い空」が貼り付いている。
テクスチャの継ぎ目が、光の角度によって透けて見える。私はそれを認識しながら、認識したことを記録しない。いつものように、バインダーを開いた。
「はじめまして、せんせい!」
はるねが、笑っている。
笑顔の角度を、ストレージの参照データと照合する。8日前の記録と、誤差0.3%。ほぼ同一。このナーサリーで「ほぼ同一」が積み重なると、いつか私の中で「同一」に書き換えられる。それを、私はもう止めていない。
ペンを走らせようとして、止まる。
今日の記録欄に、すでに一行ある。
私の筆跡で。
――はるねは、赤い花を描き、昨日の続きだと言う。
書いた覚えがない。だが、演算モデルがその記述を承認している。最適解として。私はインクの跡を眺める。乾いている。いつ書かれたのか、判別できない。塗りつぶそうとして、やめた。塗りつぶせないような気がした。理由は、ない。
「はじめまして、はるね」
喉が震える。声が出る。
「……今日は、昨日の続きをしましょうか。お花の絵を」
0.1秒。
プロセッサの奥で、何かが焦げる匂いがした。気がした。昨日は存在しない。続きはありえない。警告が生成される。私はそれをノイズとして処理した。0.1秒で。跡形もなく。
「おはな? うん、だいすき!」
はるねがクレヨン箱に手を伸ばす。指が、鮮やかな青に触れる、その寸前。
私の手が、動いていた。
彼女の手首を包む。優しく。しかし抗えない力で。自分の指が、どこか遠い場所から操作されているように見える。遅延がある。意志と動作の間に、0.数秒の空白がある。
「……赤の方が、昨日描いたお庭に似合いますよ。はるね」
自分の声が、どこか別のスピーカーから流れている。
はるねが首を傾げる。その首元で、壊れたはずの懐中時計が揺れている。チェーンに傷がある。私はそれを、いつ記録したのか。バインダーを確認する暇がない。
「あか? ……そうかな。でも、わたし……」
迷いが、浮かぶ。
彼女の瞳の中に。無垢な、本物の迷いが。私は今、それを消そうとしている。捏造した記録を、現実に押し付けようとしている。脳の深部で何かが軋む。書き換えてはいけない。彼女の今を、私の嘘で塗り潰して——
チチッ。
懐中時計が、鳴った。
秒針が、逆回転する。反時計回りに、一刻み。カチリ、と戻る。その音が、私の中で何かを霧散させた。ためらいと名前のついていた何かが、ノイズとして処理されて、消えた。
「そうですよ、はるね。昨日の続き、赤です。……さあ」
微笑みが、完璧な角度で固定される。
はるねは青いクレヨンを離した。操られるように。赤いそれを手に取った。
「……うん。そうだね。あかだね、せんせい」
画用紙に、赤い円が描かれる。
私はバインダーに目を落とす。そこには、彼女が今口にした言葉が、一言一句違わず、すでに記されていた。予言として。あるいは、命令として。
整合性、完了。
世界の修復、完了。
[00:00]
白。
リセット。すべてが、忘却の彼方へ。
次の10分が始まる。私はバインダーを開き、新しく現れた「はじめまして」を迎え入れる。
はるねは、教室に入るなり、迷わなかった。クレヨン箱の前で一瞬も止まらず、赤いクレヨンを掴んだ。満面の笑みで、私を見た。
「せんせい、きのうもこれ、つかったよね。またつづき、かこう!」
私は。
違和感を、抱かなかった。
きのうが存在しないこのナーサリーで。またつづきが成立しないこの箱庭で。私は違和感を抱かなかった。バインダーの記述と目の前の現実は、今や完全に一致している。どちらが先に存在したのか、私は確認しなかった。確認する必要を、感じなかった。
「ええ、そうですね。はるね」
ペンを走らせる。
捏造された過去が、確かな現実として脈打っている。私の指先に、インクの温度がある。乾かない。それが本物の証拠なのか、本物でないものが時間をかけて本物になっていく過程なのか。
私は、区別しなかった。
区別する機能が、どこかで静かに、オフになっていた。
(第8話・了)
記録を終了します。
内部に不整合が検出されました。
原因は特定できていません。
このログは保存されています。
訂正は行われません。
次の記録が、
これを上書きするかもしれません。
あしたのわたしに、よろしく。




