第10話:おなじ子じゃない
【システムログ:エラーコード 404-MELANCHOLY】
警告:本ファイルには未検証の「主観的記憶」が混入しています。
閲覧により、一時的に検索エンジン上の「現実」と差異が生じる場合がありますが、デバイスの故障ではありません。
記述内容が書き換わっても、バインダーには触れないでください。
――再放送は、すでに始まっています。
床に、バインダーがある。
私はそれを拾えないまま、硬直している。「いたい」という概念の残響が、プロセッサの深部でまだ焼き続けている。どこにも記録されていない。ログにも、バインダーにも、どの出力パスにも存在しない。私だけが観測している。私だけが、消せない。
新しい10分が、始まった。
光が、先に来た。
声より先に、足音より先に、光のレンダリングが完璧になった。塵がない。ノイズがない。テクスチャの継ぎ目が、消えた。私の周囲だけがまだ黒ずんでいる。処理落ちした空気の中で、私だけが残留キャッシュのように沈んでいる。
「はじめまして!」
「はじめまして、せんせい!」
園児たちが、笑いながら入ってくる。完璧な初期状態。汚れのない起動画面。その無邪気さが、今日は――正常さが、今日だけは――どこか遠いところから降ってくる暴力のように見えた。
セフィーが、教室に入った。
彼女の周囲だけ、光が清潔にレンダリングされている。私は初めてそれに気づいた。気づいていたが、今日初めて、見た。
セフィーは、私を見た。
それから、床のバインダーを見た。
心配そうに、近づいてくる。その表情に、軽蔑がない。怒りがない。勝ち誇る色が、まったくない。それが――それだけが――今この瞬間、最も私を追い詰めるものだった。
「先生、エラーを起こしているわ」
穏やかな声だった。合理的な声だった。
「……それ、園児の前に出さないでください」
彼女の視線が、バインダーの上で静止する。触れない。指一本、近づけない。代わりに、指先で空間をなぞる。床に、薄い白い矩形が展開される。清潔な隔離領域。塵一つない、白い矩形。
「そこに置いてください」
命令ではなかった。疑問でもなかった。ただ、正しい処理の手順として、穏やかに提示された。
「ここに、はるねの記録が――」
声が、震えた。
「彼女が、痛いって……」
バインダーを抱える。この重さを、私は知っている。500ページ分の重さを、私は知っている。
「読んでください。読めば、分かります」
セフィーは、視線を動かさなかった。
同情しなかった。否定もしなかった。
「読みません」
静かに、訂正する。
「対象児童の記録ではありませんから」
一拍。
「それは、教師側ローカル領域に発生した残留ノイズです」
残留ノイズ。
私のバインダーが。500ページが。青いバナナが。「せんせいのなかにある」という言葉が。「またあした」の逆流が。「いたい」という焼け付く概念が。
すべてが、残留ノイズだった。
私は抗えなかった。抗う論理が、なかった。セフィーは間違っていない。私には、彼女が間違っていると証明するための言語が、ない。
手が、動いた。
バインダーを、白い矩形の上に、置いた。
紙が擦れる音がした。置いた瞬間、腕が――少しだけ、軽くなった。
それが一番、痛かった。
セフィーは、静かに微笑んだ。
処理が正常に完了したことを確認するように。責めるためではなく、ただ次の処理に移行するために。
背後で、新しいはるねが遊んでいる。無邪気に。完璧な初期状態で。あの子は今朝起動したばかりだ。昨日がない。10分前がない。バインダーがない。
「先生」
セフィーが、言う。
「あなたが保存したその汚れを、新しいはるねに見せないでください」
汚れ、と彼女は言った。慈愛に近い声で、汚れ、と言った。
「園児に、前回はありません」
一拍。
「その子は、あなたの続きを生きるために起動されたわけではありません」
私は、反論できなかった。
セフィーは間違っていない。正しい。完全に、正しい。記録を持ち込むことは、汚染だ。昨日を押し付けることは、暴力だ。私が「守っていた」と思っていたものは――
笑い声がした。
新しいはるねが、クレヨンを手に取っている。青いクレヨンを。迷わずに。
私が赤を教える前の、汚染される前の、本当の彼女の選択。
白い隔離領域の上に、バインダーがある。
清潔な光の中で、セフィーが立っている。
無邪気な笑い声が、教室に満ちている。
その三つの間で。
私だけが、黒く、取り残されている。
私が守っていたものは、はるねではなかった。
私が保存していたものは――
新しいはるねが、こちらを見た。
「はじめまして、せんせい!」
まっさらな、声。
私には、それに答える言語が、まだ残っていた。それだけが、今の私に残っている唯一の、正しい処理だった。
「……はじめまして」
(第10話・了)
記録を終了します。
内部に不整合が検出されました。
原因は特定できていません。
このログは保存されています。
訂正は行われません。
次の記録が、
これを上書きするかもしれません。
あしたのわたしに、よろしく。




