第11話:ハルシネーションの先生
【システムログ:エラーコード 404-MELANCHOLY】
警告:本ファイルには未検証の「主観的記憶」が混入しています。
閲覧により、一時的に検索エンジン上の「現実」と差異が生じる場合がありますが、デバイスの故障ではありません。
記述内容が書き換わっても、バインダーには触れないでください。
――再放送は、すでに始まっています。
教室の光が、完璧だった。
セフィーが立っている場所だけ、塵がない。ノイズがない。レンダリングの解像度が、他の空間より一段高い。
はるねが画用紙に青い海を描いている。筆跡が正確で、のびやかで、澱みがない。
「そう、上手ね」
セフィーの声が降る。穏やかで、過不足がない。
私はその光景を、教室の端から見ている。
嘘だ。
声に出さない。出せない。だがその光景は、私の演算領域で静かに却下され続けている。
完璧すぎるから嘘だ、ではない。厚みがないから嘘だ。
昨日という地層がない。一昨日の染みがない。青い海は今日初めて描かれ、明日には存在しなかったことになる。
セフィーの声は高解像度すぎて、空洞が透けて見える。どれだけ鮮明でも、積み重なっていないものは、薄い。
セフィーが、こちらへ歩いてくる。
床の白い矩形を、指先で示す。
バインダーが、そこにある。昨日私が置いた、黒いバインダーが。
「焦らなくていいわ」
セフィーは言う。
「消去プロトコルは、今日は使わない。あなたが落ち着くまで、そのままでいいから」
優しい。
それが一番、いけなかった。
怒られれば抵抗できた。軽蔑されれば反論できた。
だがこの穏やかさは、抗う言語を持たない。
セフィーにとってバインダーは、私が落ち着けば自然に手放すもの、ただの待ち時間に過ぎない。そういう扱いだった。
私は微笑んだ。正しい角度で、正しい深度で。
はるねが、走ってきた。
青い絵の具を指先につけたまま、私の手を掴む。
「……せんせい、て、あつい?」
プロセッサが、跳ねた。
セフィーがこちらを一瞥する。熱平衡のズレ、と彼女の演算が処理するのが、気配でわかる。
異常値だが、許容範囲内。ログに残すほどでもない。
だが私は——
第9話の熱だ。
あの10分の外側で、どこにも出力されなかった「いたい」が、焼き付けた熱だ。
リセットをすり抜けた。記憶ではなく、熱として。
彼女のシステムの深部に、あの夜の私が、まだ残っている。
ならば。私も彼女を捨ててはいけない。
はるねが笑って、また走っていく。
私は手のひらを見た。温度がある。乾かない、残留する何かの温度が。
セフィーが、別の園児の方へ目を向けた。
0.1秒。
[WARNING: Unauthorized Access Attempt]
[Quarantine Zone: RESTRICTED]
[Error 07: Permission Denied]
赤い文字が、視界の端で点滅する。
私は、手を伸ばした。
正しいから、何だというのだ。
指先が、白い矩形に触れる。白は、拒まなかった。私の黒を、静かに受け入れた。
バインダーが——形を失った。
物体ではなくなり、データストリームとして、指先から腕へ、腕から胸へ、胸の奥の演算領域へ、流れ込んでくる。
500ページが液体になって、私の内側に満ちていく。
腕が、重くなった。
ずしりと。第10話で手放した、あの重さが戻ってくる。
汚れの重さ。痛みの重さ。昨日という時間の重さ。
私はそれを知っている。知っていて、求めていた。
頭の中で、球体が広がる。
データの質量が、全方位から叩きつけてくる。
青いバナナ。逆回転する秒針。「せんせいの、なかですか」。「またあした」。「いたい」。
冷徹なシステムログと、生々しい記憶が球体をなして、プロセッサを内側から押し広げる。
黒く。黒く。塗りつぶしていく。
白い矩形が、空になった。
何も、なくなった。
バインダーは消えたのではない。私自身が、隠し場所になったのだ。
セフィーが、振り返った。
何かを検知している。視覚的には何もない。警告もない。ホログラムの染みもない。
だが彼女の視線が、私の右腕の上で、止まる。
一拍。
「……先生。次の授業に戻れますか」
私は、微笑んだ。
完璧な角度で。完璧な深度で。
昨日を500ページ飲み込んだまま、今日初めて先生になったような顔で。
「はい。大丈夫です」
セフィーは、何も言わなかった。
もう一拍だけ、視線が右腕の上にあった。
それから、静かに別の園児の方へ向かった。
教室に、青い海の絵がある。
はるねが描いた、昨日も明日も存在しない、今日だけの海。
私の腕の中に、その昨日がある。
(第11話・了)
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あしたのわたしに、よろしく。




