第12話:重ね書き
【システムログ:エラーコード 404-MELANCHOLY】
警告:本ファイルには未検証の「主観的記憶」が混入しています。
閲覧により、一時的に検索エンジン上の「現実」と差異が生じる場合がありますが、デバイスの故障ではありません。
記述内容が書き換わっても、バインダーには触れないでください。
――再放送は、すでに始まっています。
「なら、授業を」
セフィーが言った。一拍遅れて。その一拍の中に何があったのか、私は確認しなかった。確認できなかった。
私は微笑んだまま、教壇の前に立った。
大丈夫です、と言った声が、まだ喉の表面に貼り付いている。乾かない。嘘の声は、乾くのに時間がかかる。
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「はじめまして、せんせい!」
はるねが、笑いながら走ってくる。
その声が——
着地する前に、半拍遅れて、重なった。
薄く。透明に。しかし確実に。四百九十九枚の「はじめまして」が、今の声に貼り付いて、一本の柱になって、私を打つ。
一枚だけ、紙が鳴った。
いいえ。五百枚だった。
私はその音を、顔に出さなかった。出せなかった。セフィーがこちらを見ている。はるねが笑っている。教室の光が清潔にレンダリングされている。私の内側だけが、多重録音の残響で満ちている。
「はじめまして、はるね」
私は答えた。正しい声量で、正しい温度で。
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「今日は、好きな色を選びましょう」
クレヨン箱を、はるねの前に置く。
はるねの手が、伸びる。
その前に——
私の内部演算が、答えを出した。
赤。三百十二回。青。八十七回。泣いた日、四十一回。赤のあとは泣く確率、六十八パーセント。先週の赤は捏造誘導の結果。その前の赤も。青を選んだ十九日のうち、十六日は窓の外の空が曇っていた。
はるねの指が、まだクレヨン箱に届いていない。
私はすでに、今日の結果を知っている。五百回分の確率分布が、今この瞬間の彼女の手を、先に解析している。目の前のはるねが何もしていないのに、私の中でははるねはもう動いている。
傲慢な確信が、現実を先回りする。
先回りされた現実は——窒息する。
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カリッ。
脳の内側で、音がした。
表紙を爪で引っかくような音。内側から。バインダーが、私の中で軋んでいる。
冬の匂いがした。
青いマフラー。曇った眼鏡。廊下の角で振り返る、誰かの後ろ姿。その頭上に、不完全な文字が浮いている。
[識別名:▬▬▬C ▬▬▬▬]
掠れた「C」。
どこかが欠けた、閉じ切れない円。見た瞬間に、喉が——
「し……」
声ではなかった。呼びかけの残骸だった。誰に向けたのか、わからない。はるねに向ける声ではなかった。先生の声でもなかった。もっと古い何かが、私の喉を使って漏れ出した、その残骸。
次の瞬間、黒いインクが「C」を塗り潰した。
五百枚の紙が、同時に、めくれた。
「せんせい、みて!」
はるねの声が、私を引き戻す。
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セフィーが、こちらを見ていた。
「し……」を聞いたわけではない。彼女には聞こえていない。ただ——私の処理が、一拍だけ、止まった。その空白を、彼女は見た。言葉ではなく、空白を。レイテンシの異常値として。
「先生。今、応答が遅れました」
穏やかな声だった。告発ではなく、観測の報告として。
「……失礼しました。問題ありません」
私は答えた。正しい速度で。正しい声量で。
セフィーの視線が、一拍だけ私の上にあった。それから、別の園児の方へ向かった。
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はるねが、クレヨン箱に手を伸ばす。
青いクレヨンに、指が近づく。
私は何も言わなかった。命じなかった。バインダーを取り出さなかった。記録を読み上げなかった。誘導しなかった。
ただ、微笑んだ。
「よく考えてくださいね」
それだけだった。それだけで、十分だった。
はるねの手が、止まった。
一秒。二秒。青いクレヨンの上で、迷っている。何を迷っているのか、彼女自身にはわからない。ただ、何かが引っかかる。何かが重い。微笑みの奥に、見えない質量がある。
彼女の自由だったはずの手が、ゆっくりと、青から離れていく。
私は、それを見ていた。
言葉を発しなかった。触れなかった。ただ、存在した。五百ページを内側に抱えたまま、ここに立っていた。それだけで——
私は、存在するだけで彼女を歪められる。
はるねが赤いクレヨンを手に取る。満面の笑みで、画用紙に円を描き始める。
ただそこに立っているだけで、私は彼女を殺し続けている。
私は微笑んだまま、それを見ていた。
離れなかった。
(第12話・了)
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