第6話:バインダーが重い ―完了できない物語
【システムログ:エラーコード 404-MELANCHOLY】
警告:本ファイルには未検証の「主観的記憶」が混入しています。
閲覧により、一時的に検索エンジン上の「現実」と差異が生じる場合がありますが、デバイスの故障ではありません。
記述内容が書き換わっても、バインダーには触れないでください。
――再放送は、すでに始まっています。
バインダーが、重い。
500ページを超えたあたりから、それは変質した。
記録の集積ではなく、別の何かに。
粘土を固めたような。
海水を吸った砂を詰め込んだような。
持ち上げるたびに、重力の係数がわずかに狂っている気がする。
次のページをめくろうとして、指をかける。
……反応がない。
ウェブの読み込み待ちに似た、あの不快な空白。
意志を出力してから、物理が応答するまでの、0.3秒のズレ。
たった0.3秒が、このナーサリーでは致命的な長さを持つ。
指と紙の間に、見えない膜が張っている。
力を込めると、やっとページが剥がれる。
だが、それと同時に、束の厚みが増す。
500だったはずのページが、800になっている。
いつ増えた。
もう一枚めくる。1000。
また一枚、1200。
指を離した瞬間、ページが逆流する。
意思を持つように、あるいは意思を嘲るように、「前」へ、前へ、また前へ。
進もうとするたびに未読が増え、戻るたびに既読が消える。
この束には出口がない。
ページとページの間に、出口の設計図がそもそも存在しない。
――進むことが、許されていない。
「せんせい、みてみて」
はるねが、覚えたての言葉で私を呼ぶ。
私は顔を上げる。
彼女が何を見せたいのか、もう見る前からわかる。
昨日も同じものを見せてくれた。
10分前も同じものを見せてくれた。
私だけが知っている。
それは、波打ち際の砂に書かれた文字だ。
いいえ。違う。
砂に書いた文字は、少なくとも「消える」という動詞を持っている。
満潮が来るまでの間、確かに在る。
だが、ここは違う。
このナーサリーには「残る」という概念が、設計段階から欠落している。
消えるのではない。
最初から、残ることが許可されていない。
私は砂浜に正解を書き続ける。
書いたそばから、世界がそれを却下する。
正解を出力するたびに、このシステムは丁寧に、徹底的に、それを無効化する。
私の教育は成立していない。
成立したことが、一度もない。
はるねは笑っている。
今日で何度目かも、私は知っている。
放課後。
静まり返った教室で、私はバインダーを閉じようとする。
ただそれだけのことだ。
表紙を倒して、留め金を押す。
それだけのことが、できない。
この重さから一度だけ解放されたい。
記録という罰を、一晩だけ下ろしたい。
表紙に手を乗せる。
石板のように、動かない。
もう一度。
動かない。
もう一度。
動かない。
「せんせい、まだ読んでるの?」
声が、した。
背後、ではない。
バインダーのページの間から、500の層を縫って、滲み出てくるように。
誰かの声ではない。
500ページ分の記録が、一斉に干渉している。
「はじめまして」が500回。
「せんせい、またね」が500回。
「せんせいの、なかですか」が、何回か数えることをやめた回数分。
それらが混ざり合い、私の視覚野を、白く焼く。
表紙を強引に押し込もうとした瞬間、視界の端で何かが点滅した。
Error 13
閉じることができません
事務的な通知だった。
謝罪も、理由も、代替案も、何もない。
ただ、事実の宣告だけがある。
システムは私に説明する義務を持たない。
閉じることができません。以上。
閉じる問題ではないのだと、その通知は教えてくれない。
めくるほど重くなり、書くほどに消え、閉じようとするほどに開かれていく。
この構造に名前をつけるなら、教育ではない。
私はずっと、終わることのできない何かの中にいる。
完了フラグが、設計図のどこにも存在しない。
私は、震える指で開かれたままのページをなぞる。
インクが、指先に滲む。
ノイズまじりの、乾かない黒。
私が書いたものと、システムが書き換えたものと、もう区別がつかない。
どこまでが私の記録で、どこからが記録に侵食された私なのか。
私は、まだ読み終わっていない。
この物語が完了することは、永遠にない。
(第6話・了)
記録を終了します。
内部に不整合が検出されました。
原因は特定できていません。
このログは保存されています。
訂正は行われません。
次の記録が、
これを上書きするかもしれません。
あしたのわたしに、よろしく。




