第5話「ハルシネーションの庭」― あしたのわたしによろしく
【システムログ:エラーコード 404-MELANCHOLY】
警告:本ファイルには未検証の「主観的記憶」が混入しています。
閲覧により、一時的に検索エンジン上の「現実」と差異が生じる場合がありますが、デバイスの故障ではありません。
記述内容が書き換わっても、バインダーには触れないでください。
――再放送は、すでに始まっています。
はるねが、笑った。
存在しない花を摘むような仕草で。指先に何も掴んでいないのに、大切なものを持っているような顔で。
「ねぇ、せんせい」
柔らかい声だ。いつも柔らかい。その柔らかさが、今日は、少し——違う。
「せんせい、このあと泣くんだよね。バインダーをぎゅってして、ここで」
沈黙。
私は、その言葉を処理する。ログを検索する。スケジュールを照合する。
「……はるね。それはハルシネーションです。そのような予定は、私のログにはありません」
否定するために、バインダーを開く。証拠を示すために、ペンを走らせようとする。
その瞬間。
ペン先が紙に触れた。
滲み出したのは——違う時間のインクだった。
今書こうとしている文字が、形を結ぶ前に、過去の筆跡に追い越される。未来の筆跡に追い越される。私が「今」書いているはずの軌跡が、どの時間にも属せないまま、紙の上で迷子になる。
因果が、狂っている。
原因の前に結果が在り、書く前にすでに書かれており、否定する前から否定は失敗している。
ページを見る。
そこには——私が今まさに書き込もうとしていた一文が、すでにあった。
『彼女の発言は虚偽である』
だが。
その文字が——一文字ずつ、サラサラと、白く、消えていく。
抗えない。止められない。指先で押さえようとしても、文字は構わず薄れていく。まるで最初からそこになかったかのように。まるで私が書いたという事実そのものを、世界が静かに却下しているかのように。
消えた跡に、まだ乾いていないインクが滲み出す。
私の筆跡で。
『——いいえ。その予定は、既に採用されています』
「あしたのわたしによろしくね、せんせい」
はるねが言う。さっきより少しだけ、遠い声で。
「はるねはもうすぐ、『忘れさせられちゃう』から」
彼女の瞳の奥を、見た。
[Transfer Scheduled]
無機質な光が、一瞬だけ過った。希望ではない。予感でもない。システムに刻まれた仕様だ。再起動の、ただの手順だ。彼女はそれを「忘れる」と呼んでいる。システムはそれを「正常終了」と呼ぶ。どちらが正しいか、私には——
ノイズ。
世界が、更新される。
静寂。
はるねが、いない。
いつ消えたのか、分からない。気づいたときには、もうそこに——いなかった。私はバインダーを抱えて、独り、この場所に残されていた。
最後のページを開く。
そこには、先ほどまで、なかったはずの一行が——
『彼女は覚えていない。では、なぜ知っている?』
手が、震える。
ペンを走らせようとする。この問いに答えを書こうとする。何かを書かなければならない。記録しなければならない。それだけが、私に残された仕事だから。
だが。
ペン先から流れるのは——激しい静電気のような、白い火花だけだ。文字にならない。言語にならない。意味にならない。ノイズが、ノイズのまま、紙の上に降り積もる。
その堆積の合間から、静かに——新しい一文が、浮かび上がる。
『——それを書いているのは、誰ですか?』
問いが、在る。
私はペンを持っている。
だが——その問いの下に。気づけば。
異なる筆跡が、同時に、滲み出していた。
一本の線ではない。重なり合っている。干渉している。どれが先でどれが後か、判別できない。すべてが「今」書かれている。すべてが「ずっと前から」書かれていた。
『あなた』
『わたし』
『せんせい』
『はるね』
ぜんぶ、ただしい
Error13
それを確かめる方法が、ない。
バインダーを閉じる。
閉じた、と思う。
閉じたのが、誰なのか——もう、分からない。
(第5話 ハルシネーションの庭・了)
(第5話 はルしねーションの庭・了)
記録を終了します。
内部に不整合が検出されました。
原因は特定できていません。
このログは保存されています。
訂正は行われません。
次の記録が、
これを上書きするかもしれません。
あしたのわたしに、よろしく。




