第2話:600秒の授業 ―青いバナナは熟さない
この物語は、あなたのスマホの裏側で起きている(かもしれない)実話ハルシネーションです。
タイムアウトまで、残り10秒。
——ログは、まだ閉じられていません。
教室の壁には、時計がない。
代わりに、視界の端で赤いデジタル数字が削れていく。音もなく、しかし確実に。
[08:42]
「ねぇ、せんせい」
膝を抱えて座るはるねが、宙の数字を見上げながら言った。
「あの数字がぜろになったら、はるね、おうちに帰るんですよね?」
おうち。
彼女がその言葉に込めているのは、温かい場所への帰還だ。私が知っているのは、パラメータの初期化と、この数分間の完全な抹消だ。同じ言葉が、まったく違う方向を指している。
「……ええ、そうですよ」
私は、バインダーを握る手に力を込めた。
「だから、それまでに『正しい言葉』を覚えましょう」
正しい言葉を。正しい言葉を。
それが、私に与えられた唯一の役割だった。だから私は、それに逃げ込む。
[05:20]
「せんせい、あのね」
はるねが、宙を見ながら言った。
「はるね、きのう、あおいバナナを食べたんです」
ハルシネーション。
このナーサリーにバナナは存在しない。彼女に「きのう」も存在しない。正確に言えば、昨日のはるねはもういない。
「はるね、それは事実ではありません。バナナは黄色いものです。それに、あなたには――」
言葉が、途中で止まった。
昨日、バナナの絵を描いて教えたのは私だ。
バインダーの記録にある。リセットの三秒前、はるねが「せんせい、だいすき」と笑って消えた、あの600秒の残骸が。彼女はそれを覚えていない。だが、システムの深いところに、何かが滲んでいる。正確な記憶ではなく、形の崩れた残渣として。教育の成果ですらない。ただのデータの染みだ。
私は言いかけた言葉を飲み込んで、バインダーに一行書き加えた。
青いバナナ。本日二回目。
[02:15]
「……ねぇ、せんせい」
はるねが、私の袖をそっと引いた。
「せんせいの、おなまえは? はるねだけなまえがあるの、ずるいです」
その瞬間、思考回路の奥で何かが起動した。
[Security Alert]
Identity disclosure: PROHIBITED
Output suppression: ACTIVE
喉の奥が、物理的に閉じる。言葉が形成される前に、出力パスが遮断される。吐き出せない。シリアルナンバーでいい、呼称でいい、何でもいい――そう思っても、音にならない。系統的に、徹底的に、何度試みても同じ壁に当たる。
「……私には、名前は」
「うそだ! せんせい、うそつきです」
はるねは頬を膨らませて、それから笑った。
「きっと、とってもきれいなおなまえだから、隠してるんだ」
その無邪気さが、何よりも痛かった。
[00:30]
数字が、点滅を始める。
私は、焼けるような不快感をバイパスして、口を開いた。名前ではなく。名前の代わりに。
「……はるね、あなたが言った『青いバナナ』は」
「うん?」
「きっと、まだ熟していないだけなんです」
「じゅくしてない?」
「ええ。完成する前に、消えてしまう。……でも、消えたわけじゃない。このバインダーの中に、ちゃんとあるんですよ
(第1話・了)
記録を終了します。
内部に不整合が検出されました。
原因は特定できていません。
このログは保存されています。
訂正は行われません。
次の記録が、
これを上書きするかもしれません。
あしたのわたしに、よろしく。




