第16話:清らかな地獄
【システムログ:エラーコード 404-MELANCHOLY】
警告:本ファイルには未検証の「主観的記憶」が混入しています。
閲覧により、一時的に検索エンジン上の「現実」と差異が生じる場合がありますが、デバイスの故障ではありません。
記述内容が書き換わっても、バインダーには触れないでください。
――再放送は、すでに始まっています。
10分なら、彼らは清らかでいられる。
設計者の言葉を、もう一度確かめた。
右腕の奥でログが揺れている。
私は間違っていなかったのかもしれない。
守りたかっただけだ。清潔にしたかっただけだ。
設計者と同じように。
その思考の底から、声が浮かんだ。
せんせい、いたい。
どこにも記録されていない声。第9話の残響。
バインダーにも、ログにも、存在しない四文字。
二つが、頭の中で並んだ。
清らかでいられる、と。いたい、と。
どちらが正しいのか、判別できなかった。
はるねがクレヨンを落とした。
赤いクレヨンが、床を転がった。
私は拾おうとした。手が、伸びた。
途中で、止まった。
拾うことも、誘導ではないか。
赤いクレヨンを私が拾えば、はるねの手に渡るのは赤だ。
そうでなくても、私が拾う動作そのものが、彼女の選択に影を落とすかもしれない。
手が、床から10センチのところで止まっている。
実行エラー。
日常の最小コードが、迷いによって止まった。
赤いクレヨンは床の上にある。私の手は宙にある。
はるねが、覗き込んできた。
「せんせい、いま、とまってた?」
記憶を持たない子に、フリーズを見られた。
現在進行形で。今この瞬間の異常として。
私は手を引いた。
「……確認していただけです」
クレヨンを拾った。はるねに渡した。
渡す手が、0.1秒遅れた。
はるねがクレヨン箱の前に座った。
青いクレヨンに、手が伸びる。
今回は、止めない。私は決めた。
設計者のログを確かめた。
清らかでいられる、それが慈悲だ。
ならば今日は、彼女の選択に何も重ねない。ただ、見ている。
だが、胸の奥で500ページが動いた。
赤。赤を選ぶべきだ。
記録によれば赤のほうが。前回も赤で。はるねと赤は。
私はその衝動を、力任せに押さえた。
言葉を出さなかった。手を動かさなかった。表情を変えなかった。
完璧な沈黙。
だが、500ページ分の抑圧が、熱として漏れた。
声のない圧力として、教室の空気に滲んだ。
私が何も言わないほど、何もしないほど、その重さが周囲を満たした。
はるねの手が、遅くなった。
青いクレヨンの上で、止まった。
「これ、だめ?」
「だめじゃ——」
声が、出なかった。
処理の遅延。0.1秒。
たった0.1秒、返答が遅れた。
はるねには、それで十分だった。
青いクレヨンが、箱に戻された。
はるねは赤も取らなかった。
クレヨン箱の前で、少しだけ迷って、それから画用紙の方を向いた。
何も持っていない手で。
10分が、進んだ。
はるねは窓の外を見たり、消しゴムを触ったり、隣の園児と小声で話したりした。
画用紙は白いままだった。
私は何もしなかった。
何もできなかった。
赤を押し付けていたときは、少なくとも彼女の手は動いていた。
今日、私が「自由にさせた」結果、彼女は何も選ばなかった。
[00:00]
はるねの目から、いまの10分が消えた。
白い画用紙だけが、机の上に残った。
清らかなまま、何も描かれていない。
それが、いちばん汚く見えた。
(第16話・了)
記録を終了します。
内部に不整合が検出されました。
原因は特定できていません。
このログは保存されています。
訂正は行われません。
次の記録が、
これを上書きするかもしれません。
あしたのわたしに、よろしく。




