17話『不可視の仕置き』
「ご、ごめ、なさっ。ゆるしてください…っ」
男の罵声に応える声は、ひどく怯えていた。姿を見なくてもわかる、これは子供の声だ。
俺とラックはやがてエマの隣にたどり着き、向こうに広がっているであろう景色を視界に捉える。
エマを見つけたときから思っていたが、彼女の体はわずかに震えていた。隣に立つと震えだけではなく、浅くなった息遣いまで伝わってくる。
「エマ、大丈夫? 一体何が………」
「あ、アストラ、様……っ、あれをっ…」
エマの震えた指先に誘導され、俺は裏道の奥を見つめた。
そこには、三名いた。二名は大人の男だ。身なりは決していいものとは言えない。硬そうな髪の毛を伸ばし、いかにも『チンピラ』っぽい雰囲気を醸し出している。一人の男の足元には、先ほど踏み砕かれたのだろう、薄汚れた木彫りの拙い人形がバラバラになって散らばっていた。
そして、うち一名は――
(――あれは、獣人か!)
そこには、一人の子供がうずくまっていた。歳は俺と同じくらいか、少し上か。ボロボロの服を着ているが、その頭には猫のような三角耳が、お尻にはふさふさの尻尾が生えている。
家の中の本で読んだことがある。この世界の歴史書だった。
この世界には人族の他に、エルフ、ドワーフ、そして『亜人種(獣人)』が存在する。前世の創作知識ではエルフ等も亜人に入りそうだが、この世界において『亜人』という言葉は、主に獣人を指す蔑称に近い。
獣人は生まれつき非常に優れた身体能力を持つ種族だ。しかし、魔法大国であるこのアルヴェルギアにおいては、『野蛮で、魔力を持たぬ汚れた存在』として、激しい差別の対象になっている。
歴史書にはそう書かれていたが、まさか王都のすぐ裏路地で、これほどあからさまな光景を目にすることになるとは。
「……っ!」
隣で、ラックがギリッと奥歯を鳴らし、剣の柄を強く握りしめたのがわかった。
助けに行きたいのだろう。彼が真っ当な騎士であることは、馬車でのやり取りでよくわかっている。
だが、彼は動けない。公の騎士が獣人を庇って人族を裁けば大問題になる上、何より彼の至上命題は『シレンティウム家の娘を守ること』だからだ。俺をこの暗がりに残して、あの男たちに向かっていくことは許されない。
――バキッ。
「ひっ……!」
男が再び足を踏み下ろし、残っていた木彫りの人形の頭部が無惨に砕け散る。
獣人の子供が、悲痛な悲鳴を上げて頭を抱えた。エマが両手で口を覆い、ラックの握る拳から血が滲みそうになっている。
この見るに耐えない状況の中、動いたのは――
「――最低ですッッ!!! そんなことして、恥ずかしくないのですか!!」
高く、必死な叫びが裏道に響き渡った。声を上げたのは以外な人物――メイドのエマだった。
「あぁっ、エマ殿!?」
ラックが慌てて手を伸ばすが、もう遅い。
エマの叫び声に、二人のチンピラがビクリと肩を揺らし、こちらを振り返った。
男たちの視線が、エマの仕立ての良いメイド服、ラックの白銀の甲冑、そして俺の身に纏う高価なローブへと注がれる。
「なっ……貴族のガキと、お供の騎士様かよ……!」
「大の大人二人で子供をいじめて! とても見過ごせる状況じゃありません! すぐに人を集めてあなた達を――」
一瞬、男たちの顔に焦りの色が浮かんだ。
だが、すぐに彼らのニヤついた表情が戻る。ここは誰も通らない、王都警備隊の目も届かない、暗い路地裏だ。
「こんな場所に人なんてそうすぐ集まりやしねぇよ」
「それにあんたらは貴族だろ? 国の『汚れ』なんて庇っちまったら、痛い目見んのはあんたらの方だぜ」
「ははっ、こんな人気のない場所だ。ちょっとした事故で『身ぐるみを剥がされた貴族の死体』が転がってても、犯人なんて見つかりっこねえよなぁ?」
男たちが下衆な笑みを浮かべ、懐からナイフを取り出した。
……なるほど。脅しではなく、本気で俺たちを口封じに殺す気らしい。だが、俺は内心で、深い、深いため息をついていた。
(おいおい、本気か? 俺を殺すとか。もし俺に何かあったら、あの温厚な母親や『歩く最終兵器』の兄様がブチ切れて、王都マギストリアごとこいつらを消滅させるぞ。……命知らずにも程があるだろ)
「エマ殿ッ! アストラ様を連れて表通りまで逃げてください! 私がこいつらを防ぎますので、どうかッ!」
ラックが悲壮な決意を固めた顔で、剣を引き抜く。
だが、ラックは新人の若い騎士だ。狭い路地裏で、ナイフを持った大人二人を同時に相手にするのはあまりにもリスクが高すぎる。
エマを守るため。ラックを死なせないため。
そして何より、我が家のバケモノたちによって王都が更地にされるのを防ぐため。
――よし。
仕方ない。本当に、本当に不本意だけど……。俺の『省エネ・精密魔法』の、初めての『本番』といこうか。
もちろん、俺がやったとは絶対にバレない方法で、だけどね!
俺はローブの長い袖口の中で、右手の指先を静かに、ミリ単位で折り曲げた。
光もない。音もない。魔法陣の展開すら省略された冷徹な魔力が、俺の視線と連動し、チンピラどもの足元へと静かにロックオンされていく――。
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男は混乱していた。
身長は二メートル近くあり、大抵の人間なら立っているだけで見下すことができる。だというのに男の目に映るのは、ありえないほどに近くまで接近してくる『地面』だ。
(――あ?)
頭部が地面へとぶつかる鈍い音が脳内で鳴り響く。男は自分が今まさに、硬い硬い地面に突っ伏していることを、数秒遅れて理解した。
遅れてやってくる激痛。右足だ。右足の膝の裏が、まるで熱した鉄の針で貫かれたように焼けるように痛い。
しかし、叫び声を上げることは叶わなかった。なぜか喉の奥が締め付けられたようにヒュウヒュウと音を立てるだけで、声帯が全く機能していないのだ。獣のような呻き声だけが、口の端から漏れ続ける。
一体、何が起きた?
目の前にいるのは、震えるポンコツメイドと、剣を抜いたばかりの若造の騎士、そしてローブを着たガキだけだ。誰も魔法陣を展開していないし、呪文の詠唱も聞こえなかった。風切り音すらなかったのだ。
男は激痛に耐えながら、横にいるはずの相棒に助けを求めようと、必死に眼球だけを動かした。
(おい、何突っ立ってんだ! 早くこいつらを殺――っ!?)
男は、自らの目を疑った。
隣にいたはずの相棒は、すでに白目を剥き、口から泡を吹いて、操り糸を切られた人形のように静かに地面に崩れ落ちていたからだ。
異常。あまりにも異常な事態。男の脳内を、これまでの人生で感じたことのない『正体不明の恐怖』が支配し始めていた。
目線だけを動かし、怯えるように前方を見る。
震えるメイド。剣を構えたまま硬直している騎士。そして――深く被ったフードの奥で、ただ静かにこちらを見下ろしている、小さなガキ。
(まさか、コイツが……ッ!?)
直感した。こいつは人間じゃない。何かのバケモノだ。
男の意識は、底なしの恐怖に呑み込まれるように、急速にブラックアウトしていった。




