汚れても
どこをどう走ったのか、覚えていなかった。
特別教室棟を抜け、渡り廊下から外れ、上履きのまま無我夢中で脚を動かし続けた。
夕焼けが校舎の壁を燃やして、窓という窓が橙色に光っている。その眩しさから逃げるみたいに、詩翠は建物の影へと向かった。
思考と一緒に足までもつれる。
受け身も取れず、詩翠は前のめりに倒れ込んだ。掌に砂が食い込み、膝が土を擦る。衝撃で眼鏡がずれて、視界が斜めに滲んだ。
「……っ」
詩翠は倒れたまま、動けなくなった。
無様な姿を誰にも見られていないのは救いだったが、同時に惨めでもあった。
――そのどこに、君がいる?
――ボクと先輩は……特別な関係だった
――対価を払え
投げかけられた言葉が代わる代わる胸の中で転がって、そのたびに呼吸が浅くなった。
泣きたくないのに、涙が勝手にこぼれてくる。
一粒落ちると、あとはもう止まらなかった。砂利の上に、ぽつぽつと小さな染みが増えていく。
その染みを見ているうちに――ふいに、古い記憶が浮かび上がってきた。
あれは、幼稚園のころだ。
夏の夕方、雨上がりの帰り道だった。アスファルトから湿った土の匂いが立ちのぼって、水たまりが夕焼けを映していた。
前を歩く姉のランドセルの金具が、夕日を受けてちかちか光っていたのを覚えている。
詩翠はお気に入りの人形を抱えて、水たまりを飛び越えて遊びながら歩いていた。
その着地でつまずき、手から人形がすっぽ抜けた。人形は舗道を転がって、道端の側溝にぽちゃんと落ちた。
深い溝だった。覗き込むと、濁った水の上に人形のスカートが浮かんでいた。
幼い詩翠は道の真ん中で泣き出した。世界の終わりみたいに感じたのだ。
「泣かないで、大丈夫だから」
隣にいた姉はランドセルを地面に下ろすと、詩翠の頭をぽんぽんと撫でた。
それから、ためらいもなく側溝の縁に膝をついて、腕を肩まで突っ込んだ。
泥水が跳ね、白いシャツの袖がたちまち灰色に染みていった。姉は頬にまで泥を飛ばしながら、何度も腕を伸ばし直してずぶ濡れの人形を高々と引き上げてみせた。
「はい、救出完了!」
詩翠の涙はいつの間にか涙は引っ込んでいて、飛び跳ねて喜んだ。
だが、姉の姿を見て急に心配になった。全身泥だらけだ。母に叱られる。
また泣きそうになると、姉は屈託なく笑った。
「私は汚れたっていいの。それより、詩翠が笑ってくれるほうが大切だから」
夕方の光の中で、泥だらけの姉は世界のなにより綺麗に見えた。
回想は、そこで溶けて消えた。
詩翠はのろのろと体を起こした。ずれた眼鏡を掛け直す。輪郭を取り戻した視界には、土で汚れた自分の身体が映っていた。あの日の姉とよく似た汚れ方だ。
「私は汚れたっていい……」
詩翠は詩鶴の言葉を反芻した。
姉はいつもそうだった。誰かの笑顔のためなら、平気で自分を犠牲にできる人だった。
もし、姉が生きていて今と同じ状況ならば、迷わず対価を差し出したに違いない。
思考が静かに傾いていく。
危険な方へ。
取り返しのつかない方へ。
詩翠は落ちた手帳を拾い、立ち上がった。
濃さを増した夕焼けが、校舎の影を長く長く引き伸ばしている。その影を踏んで、詩翠は来た道を引き返し始めた。
運動部の掛け声はもう遠く、昇降口のほうから下校を促す放送が聞こえてくる。
それを無視して、詩翠は特別教室棟を目指した。
この道に後戻りがないことを、どこかで察しながら。




