最悪な対価
御影はまだ化学実験室の窓際にいた。
戸口の詩翠を認めた瞬間、その目がわずかに見開かれた。本当に驚いたらしい。それを隠すみたいに口の端が歪んだ。
「……忘れ物か? それとも、まだボクを殴り足りなかったのかな?」
「対価、払います」
詩翠は真っ直ぐに目的だけを伝えた。
「だから――知恵を貸してください」
沈黙が一拍。
御影は頬杖を解いて、椅子ごとこちらへ向き直った。冷ややかな視線が、詩翠の足元から頭までをゆっくり往復する。
「……走って転んだな。膝とスカートに土。掌には砂利の痕。目の縁が赤い。泣いた後だ。力んだ拳は握りっぱなし」
相変わらず性格な分析だった。
「いいか? それは覚悟じゃない。自暴自棄って言うんだ。傷ついて頭に血が上って、痛みで痛みを上書きしたくなって――」
「だったら……どうだって言うんですか?」
「なに?」
「もし、今の分析が当たりだったとして……アナタに関係ないですよね?」
自暴自棄になっている。
姉の続きを生きるための着ぐるみになろうとしている。
否定したい気持ちはあるが、詩翠は口にはしなかった。観察力と論理で御影と戦えば、勝てる見込みはない。
だから、詩翠は戦う場所を変えた。
「報酬と対価の取引に動機なんて必要ありません。それとも、何ですか? 提案しておいて……怖気付いたんですか? 先輩」
御影の目から、からかいの色が消えた。
無言で詩翠を見つめて、低く笑った。愉快そうで、それでいてどこか乾いたような笑い方だった。
「……言うじゃないか」
御影は立ち上がると、鞄から何かを取り出して実験台の上に置いた。
砂時計だった。
掌に収まるほどの、青いガラスで作られた物だ。中の砂は白く、上の球にすべて溜まっている。夕焼けを受けて、ガラスの縁だけが細く光っていた。
「いいだろう、取引だ。依頼は今回が初めてだから、報酬は前払いにしてもらう」
詩翠はゆっくりと頷いた。
御影から協力の意思を引き出せたのだから、細かい条件はもう気にしない。
「ルールを伝える。一度しか言わない。この砂が落ちきるまでの十分間……君は、君であることをやめる。君は詩鶴先輩になるんだ」
御影の手が伸び、詩翠の顎先を摘んだ。
「その間、ボクの求め全てに応えること。拒否権はない。途中で降りるのも認めない……降りるなら、今のうちだ」
冗談でも脅しでもないことは声でわかった。
これから始まる行為をただ淡々と宣言しただけにすぎない。
詩翠は砂時計の白い砂を見た。
たった十分。されど十分。
この小さなガラスの中身と引き換えに、真相へ辿り着くための知恵が借りられる。
――私は汚れたっていいの。
胸の奥で、泥だらけの姉が微笑んでいる。
「……わかりました」
全てを理解した上で、詩翠は答えた。
なるべく声が震えないよう意識する。それだけが、ささやかな意地だった。
怖くなんてないと、御影に向かって精一杯アピールする。
「眼鏡、外して」
「え……?」
「詩鶴先輩はかけていなかった」
詩翠の了承を得る前に、御影が眼鏡のつるに触れる。あっさりと外されて、詩翠の世界は曖昧になった。見慣れた視界のはずなのに、今はそれが自分という人間の輪郭ごとぼやけていくみたいだった。
白い砂が静かな音と共に落ち始める。
それを合図に、御影が距離を詰めてきた。
細い指が頬に触れた。肩が跳ねる。
指はそれを咎めもせず、輪郭を確かめるように、ゆっくりと顎の線をなぞった。
最初に感じたのは肌の冷たさだった。次に恐怖。三番目に押し寄せたのは、名前のつけられないざらりとした気持ち悪さだった。
あらゆる負の感情が、胃の底で一緒くたに冷えて固まっていく。
思わず声が出そうになって、慌てて飲み込んだ。
悲鳴も抗議も、この十分間では契約違反だ。
詩翠は奥歯を噛んで、指の動きに耐えた。
「……久しぶり」
囁きが詩翠の耳のすぐそばに落ちた。
嘲りも皮肉もない、綺麗な声。柔らかくて甘えるような、別人みたいな声。
「髪、伸びたね」
御影の手が背中に回る。
返事をしてはいけない。できるはずもない。それに、求められてもいない。
この言葉は詩翠に向けられたものではないのだから。
この指が確かめている相手も、囁きかける相手も……もうこの世にはいない姉だ。
時間が遅い。
早く終われと砂の音を数えてしまう。数えるほどに、一秒が長く伸びていく。
十分は六百秒だ。六百まで数えれば終わる。そう思って数え始めて、まだ三十秒も進んでいないことに気付いて眩暈がした。
首筋に触れた指の冷たさが、現実へ引き戻してくる。
心臓の音が砂の音より大きい。制服の下で、背中に汗が一筋伝った。
必死に思考を泳がせていると、最悪の考えが滑り込んできた。
日向詩鶴も、こんなことをしていたのだろうか。
特別な関係だった相手に身体を差し出し、指を絡め、体温を交換し――
そこまで考えて、胃の底のものがせり上がった。
やめろ、考えるな。それ以上、踏み込んではいけない。
必死にブレーキをかけても、一度開いた隙間からは最悪の想像が次々と染み出してくる。
目尻が熱くなり、一滴の滴がこぼれた。
間違ってない。これは必要なことだ。
信じる正しさのために。汚された宝物を救うために。
念仏のように唱え続ける言い訳は、重ねるほどに意味が薄くなっていった。
瞼の裏は赤かった。夕焼けの色か、それとも汚された百合の色か。
区別のつかない赤の中で、砂の音だけがさらさらと正確に降り続けている。
脳裏で数え続けた秒数は、まだ三百にすら届いていなかった。




