最低最悪な要求
特別教室棟への渡り廊下は、今日もひと気がなかった。
夕方の光が床板の継ぎ目を斜めに照らして、詩翠の影だけが長く伸びている。
胸には手帳を抱えていた。パズルのピースはこの中にあるはずだ。足りないのは、それを一枚の絵にする頭脳だけ。
――まともに口を聞いちゃダメよ。
一ノ瀬の忠告が耳の奥で鳴った。
あの人物が危険なことは、身をもって知っている。だが、姉の花を汚した犯人に辿り着けるかもしれないわずかな希望だ。
だったら、行くしかない。
初めて御影と出会った被服室には誰もいなかった。小金井の情報通り、居座っている教室は日によってまちまちのようだ。
教室を一つ一つ確かめて進んでいくと、化学実験室の戸が細く開いているのに気が付いた。わずかだが、中から紙をめくる音がする。
覗いてみると、窓際の実験台に御影海夜は頬杖をついていた。今日はクロスワードの雑誌ではなく、辞書みたいに分厚い本を開いている。遮光カーテンの隙間から差す陽の光がガラス器具の棚を通り抜け、彼女の横顔に細かい光の斑を落としていた。
御影が視線だけをこちらに寄越した。
「……また退去勧告か? 懲りないな」
心底うんざりした声だった。ページをめくる手は止まらない。
「違います。今日は……知恵を借りに来ました」
「……は?」
御影が初めてまともに詩翠を見た。珍獣でも見るような目だった。数秒の沈黙を経て、視線はあっさりと本に戻る。
「断る。面倒くさい」
「まだ何も話してません」
「話されたら余計に面倒だ。帰ってくれ」
取りつく島もない。
でも、ここで引き返すわけにはいかなかった。
詩翠は一歩、実験台に近づいた。
「でも……姉には、力を貸していたんですよね」
ページをめくる手が完全に静止した。
「日向詩鶴……私の姉です。どうしても解けないことがあると、あなたのところへ知恵を借りに来ていたって聞きました」
「……篠崎か。余計なことをべらべらと」
「どうなんですか?」
「昔の話だ。今は誰にも協力するつもりはない。帰れ」
「どうしてですか!」
詩翠の声はいつの間にか大きくなっていた。
「なんで姉なら良くて、私は駄目なんですか。姉と私と……何が違うんですか?」
沈黙が落ちた。
薬品棚のガラスの中で、西日がゆっくり傾いていく。御影は本を閉じて、体ごとこちらへ向き直った。実験台に頬杖をついたまま、値踏みするように詩翠を眺める。
「理由は二つ。まずは君の行動原理だ」
御影の目が、すっと細くなった。
「姉のおさがりの制服、スマートフォン、ストラップ。姉と同じ学校を選んで、同じ生徒会に入って、同じようにトラブルに首を突っ込む……そのどこに、君がいる?」
ナイフで胸を突かれたような気分だった。
「大切な人を亡くした際に心を守るやり方としてはありふれてる。姉が死んだと認めるのは辛い。だから代わりに、君が姉になった。着る物も所持品も……役割や行動まで真似て姉の続きを生きる。そうすれば姉は死なない。君の中で生きていることにできるから」
淡々とした声だった。
冷たく静かに一枚ずつ心が剥がされていき、背筋が凍る。
「君が借りたいのはボクの知恵じゃない。姉の続きを演じるための小道具だ。姉の着ぐるみに貸す道理はない」
否定しようとして、言葉が喉の奥で崩れた。無意識に制服の袖口を握り込む。姉にすがるように。
誰にも明かさなかった、自分ですら曖昧にしてきた部分を……目の前の彼女は残酷な形で言語化した。
全部は当たっていないはずだ。それなのに、どこからが違うのか詩翠自身も線が引けなかった。
「二つ目――君と詩鶴先輩とでは関係が違う」
黙り込んだ詩翠へ、御影はとどめをさすように続けた。
「ボクと先輩は……特別な関係だった」
その言葉の意味を理解するのに、時間はかからなかった。
御影は基本的に誰に対しても非協力的だ。姉が彼女から協力を取り付けていたという話も、にわかには信じがたかった。
でも、もし二人の関係が特別なものであれば……その違和感に説明がつく。
「先輩は律儀でね。知恵を借りるたび、ちゃんと見返りをくれた。ボクはタダ働きが嫌いなんだ。だから、たっぷりと労ってくれたよ」
椅子の脚が床を擦る。
御影が立ち上がり、ゆっくりと距離を詰めてきた。
西日を背にしているせいで、表情が影に沈んで読めない。彼女は手を伸ばし、その指が詩翠の顎の線に触れた。
「知恵を借りたいなら、君も先輩のようにすればいい。対価を払え」
乾いた音が響く。
反射的に詩翠の手が動いていた。
振り抜いた右の掌が、じんじんと痺れている。御影の頬が赤くなっている。
その状況から、詩翠はようやく自分が相手に平手を食らわせたのだとわかった。
「……っ、最低……!」
怒りなのか悲しみなのか、声は震えていた。
こんな最低最悪な人が、姉の特別なんて認めたくなかった。
詩翠は逃げた。
戸を肩で押し開けて、誰もいない廊下を走っていく。
渡り廊下に飛び出すと、外の空気が薄く冷たくて喉の奥が痛んだ。
当ては外れた。
御影の協力は得られなかった。
事件解決への道は一歩も進んでいない。
でも、今はそれどころではなかった。
知りたくなかった自分の想い。
知らなかった姉の一面。
処理しきれない情報が押し寄せ、頭がどうにかなりそうだった。




