汚された百合
「アナタって人は本当に!」
「ごめんごめん! ギブ……!」
生徒会室へ戻った詩翠を迎えたのは、怒声と悲鳴だった。
一ノ瀬が小金井を背後から締め上げていた。技の名前は知らないが、たぶんプロレスのものだろう。小金井は机に頬を押しつけられて、ぱたぱたと天板を叩いている。
「い、一ノ瀬先輩!? なにしてるんですか!?」
「詩翠さん、大丈夫だった?」
こちらに気付くなり、一ノ瀬が駆け寄ってくる。
その後、締め技から解放されて咳き込む小金井に向かって指をさした。
「コイツに厄介事を押し付けられたって聞いたけど?」
「人聞き悪いて! 押し付けてへん。詩翠ちゃんが引き受けるって申し出てくれたんや」
「だとしても、一人で行かせるべきじゃないでしょ! 相手はあの御影海夜なんだから」
言い合いを続ける二人の間で、詩翠はその名前に引き寄せられた。
「みかげ、みよ?」
きょとんと聞き返すと、小金井が「あ」と口を開けた。
「そういえば名前……教えるの忘れてたなぁ。単に不良としか言ってなかったわ」
「本当にいい加減なんだから」
一ノ瀬が呆れ顔でため息をつく。
それから、声のトーンを落として詩翠に向き直った。
「いい、詩翠さん。彼女とはまともに口を聞いちゃダメよ。勝手にプライバシーを詮索して、奪い取った情報を弱みに脅してくる。これまでにも少なくない生徒が彼女の被害に遭ってるの」
「秘めたる恋心を暴露されたりとかね」
小金井の横やりに一ノ瀬の言葉が詰まった。視線が泳いで、わざとらしい咳払いがひとつ落ちる。
異様な間が気にならないと言えば嘘になる。しかし、触れてはいけない気がしたので、詩翠は黙っておいた。
「そ、それで……詩翠さん。あの女に変なことはされてない?」
「はい……いろんなこと言い当てられて、驚きはしましたけど」
答えながら、詩翠は被服室での出来事を思い返した。
御影海夜。
わずかなピースで瞬く間に全体像を言い当てる観察力を持ちながら、それを悪用する不良生徒。一ノ瀬の説明は、詩翠が実際に抱いた印象と大まかに違いない。
だが、別れる前の最後の一瞬――その印象は揺らいだ。
彼女が詩翠に向けた瞳は、深い黒をしていた。果てのない闇を覗き込んだような目が、今でも網膜に焼き付いている。
怖かったはずなのに、いつしか詩翠は御影のことを頭の中で何度もなぞっていた。
×××
その日、詩翠は生徒会の仕事を早めに上がらせてもらった。
業務を続ける先輩を置いていくのは申し訳ないと思ったが、「今日は十分すぎるくらい働いたわ」と一ノ瀬が言い、「百合の世話もあるんやろ?」と小金井が付け足してくれたので、厚意に甘えることにした。
姉の育てたカサブランカには毎朝欠かさず水をやっていたが、今日に限ってはできていない。通学電車が遅延して始業ギリギリになってしまったからだ。
さらに昼休みは四限の体育が長引いてしまい、様子を見に行く暇がなかった。
つまり今日はまだ、一度もあの花に会えていない。
待ち遠しくなった詩翠は、歩みを早くした。
渡り廊下を外れ、砂利道に出る。一歩ごとに硬い音が鳴った。その先に、夕方の光を溜めたビニールの屋根が見えてくる。
その手前で、詩翠の足は止まった。
人だかりができていた。
温室の入口を囲むように、生徒が十人ばかり群がっている。背伸びをする子。口元を手で覆う子。スマートフォンを掲げて写真を撮る子。
「誰がこんな」「うそ、ひどい」――行き交う声の切れ端が、砂利道まで届いてくる。
なんだろう。
胸の奥が、勝手に速くなる。詩翠は人だかりの中に、知っている顔を見つけた。
「白瀬先輩、何かあったんですか?」
振り向いた白瀬の顔は、真っ青だった。
唇が小さく動いて、言葉になるまでにたっぷり数秒かかった。
「詩翠ちゃん……ごめんなさい」
「え……?」
何のことかわからなかった。謝られる心当たりがない。
白瀬は付け足すように続けた。
「私が、ちゃんと見てなかったから」
その視線が、ゆっくりと温室の中へ動く。
つられて、詩翠もそれを追った。
「――っ!?」
息が止まった。
夕方の光の満ちた温室の奥。
透き通るような白があったはずの場所に――赤黒く塗り潰された百合が立っていた。大ぶりの花弁の一枚一枚が、乾いた血のような色に覆われている。純白だったものが、見る影もない。
人だかりのざわめきが、急に遠くなった。
姉が種から育てた花。
何年もかけて、詩翠の入学式に咲いてくれた花。
それが、赤黒く汚されていた。




