山の上の高校
始業式から週が明けた月曜日。
放課後を報せるチャイムが教室に響いた。それが合図となり、周囲は騒がしくなっていく。椅子を引く音、廊下を駆けていく上履きの音。話し声と笑い声。どれも新生活への期待からくるせわしなさを隠しきれていない。
窓の外で山風が桜を揺らす。その遥か下に、春霞をかぶった琵琶湖が見えた。
米姫女子高等学校。
滋賀県でも有数の進学校がなぜこんな山の上にあるのか、新入生の日向詩翠はわからなかった。わかったのは、坂がきついということだけだ。
「スイちゃん」
背中に飛んできた声に、帰り支度をしていた詩翠の手が止まる。
「千尋? どうしたの?」
振り返ると、望月千尋が机の間をすり抜けて駆けてくるところだった。
小学校からのいちばん付き合いの長い友達だ。
「今日から体験入部が始まるでしょ? 一緒に見て回りたいなって」
「あぁ……」
期待の込められた眼差しに、詩翠は曖昧にうなずいた。
先ほどから、廊下では部活勧誘のチラシを抱えた上級生が行き交っていている。
まだ教室に残っているクラスメイトたちも、どこに見学に行くか和気藹々と相談中だ。
千尋と見て回るのは、きっと楽しいに違いない。
詩翠は申し訳ないと思いつつ、鞄の中から一枚の紙を出した。
「実は入るとこ、もう決めてるんだ」
「え!? どこ?」
今日のホームルームで配られたばかりの入部希望書。その記入欄は、既に三文字が書き込まれていた。
「生徒会」
×××
生徒会室は本校舎三階の突き当たりにあった。
通常の教室の半分くらいの大きさで、壁一面には書類棚が並んでいる。
窓辺には歴代の集合写真と小さなサボテンの鉢植え。中央の長机には書類の束と湯呑みが置かれていた。
「一年の日向詩翠です。よろしくお願いします」
詩翠はハキハキとした声で頭を下げた。
その拍子にずり落ちかけた眼鏡を、指先でそっと押し戻す。
「よろしく。副会長の一ノ瀬よ」
窓際の席に座る先輩は、静かだがよく通る声をしていた。
背筋は天井から糸で吊るされたようにピンと伸びており、姿勢の見本になりそうだ。
「会計の小金井でーす」
もう一人の先輩は対照的な雰囲気だった。机に頬杖をついて、湯呑みの脇に置かれた茶菓子を摘んでいる。ポリポリと頬張る音と呼応するようにポニーテールが揺れた。
二人とも制服のリボンの色は二年生のものだった。
「体験じゃなくて入部希望でいいのよね?」
詩翠は大きくうなずいた。
米姫女子高の生徒会執行部への入部は会長による指名制や立候補制ではなく、他の部活動と同じく希望制だ。
一ノ瀬が詩翠の手から入部希望書を受け取る。記入済みの紙面にさっと目を走らせて、微かに眉を上げた。
その隣で、小金井が両手を合わせて拝むような仕草をする。
「いやぁ、新年度早々からありがたいわ。例年、ギリギリまで誰も来ないのがお約束みたいやし」
「まぁ、生徒会って聞くと堅苦しいイメージを抱いちゃうからね」
「その分……内申点はおいしいで。日向ちゃんもそういうクチ?」
「いえ、私は――」
返答に困っていると、一ノ瀬の手が動いた。隣に座る小金井の肩に書類の角を押し当てる。
「こーら。下心丸出しのアナタとは明らかに雰囲気が違うでしょ?」
「ひどいな、効率的って言うてよ」
小金井が唇を尖らせた。悪びれた様子はなく、部屋の空気がふっと軽くなる。
「でも、理由は私も気になるわね。なにか生徒会でやりたいことがあるのかしら?」
一ノ瀬の視線に、再び詩翠は言葉を失った。
明確なやりたいことはない。しかし、目的があってこの部屋の扉を叩いたのは事実だ。厳密に言えば、ここに所属できれば詩翠のやりたいことは果たされる。
ただ、それを一から説明しようとすると、どこから話せばいいものか。そもそも、話していいものなのか。詩翠自身にもまだ整理がついていなかった。
「それは――」
「お待たせー!」
勢いよく開かれた扉が、沈黙を破った。
「ホント、参ったよ。三年になった途端、受験の心構えがどうとかで伊野センのホームルームが長くなってさぁ……」
入ってきたのは、二人の生徒。
先頭の人は歩幅も声も大きく、快活そのものだった。
その半歩後ろに小柄な人物が隠れるようにして続く。前髪が長く伏し目がちで、抱えたファイルを胸の盾みたいにしている。小動物みたいな印象を受けた。
どちらの制服のリボンも三年生を示す色だった。
二人は詩翠の存在に気がつくと、目を丸くした。
「あれ? あれあれあれ? え? もしかして、一年?」
「珍しい……」
後ろの人がぼそっと呟く。
先頭の人は「ね!」と相槌を打つなり、ずんずんと詩翠に距離を詰めてきた。
「はじめまして、生徒会長やらせてもらってる篠崎です。そんで、こっちが――」
「し、書記の白瀬……です」
先輩が揃ってお辞儀をしてきたので、詩翠も反射的に頭を下げた。
「日向詩翠です」
さっきと同じ自己紹介のはずだった。
二年生の先輩たちは、笑顔で迎えてくれた。
しかし――三年生たちの顔から、すっと、笑いが引いた。
「日向?」
白瀬が苗字だけを復唱する。
篠崎は何も言わなかった。その代わり、詩翠の顔をじっと見つめた。
目元、鼻筋、頬の輪郭。
順番に辿るその視線は、初対面の人間に向けるものではなかった。
誰かを探す目だった。
ここにいない誰かを。
部活勧誘の喧噪が、遠くで鳴っている。
世界から切り取られたみたいな静寂が、生徒会室に流れた。
やがて、篠崎が慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「人違いなら悪いんだけど……君って、もしかして日向詩鶴先輩の――」
詩翠は静かにうなずいた。
「はい、妹です」
そして、二年前に亡くなった姉について語り出した。




