最初の対価
黄昏時。
ひと気のなくなった特別教室棟の化学実験室は、異様な雰囲気に包まれていた。
実験台を挟んで制服の少女がふたり、向かい合う。
台の上に砂時計が置かれた。掌に収まるほどの青いガラスの砂時計だ。
白い砂は上の球に全て溜まっている。
「ルールを伝える。一度しか言わない」
砂時計の主が口を開いた。
「この砂が落ちきるまでの十分間……君は、君であることをやめる。君は××になるんだ」
砂時計の主の手が伸び、もう一人の少女の顎先を摘んだ。
「その間、ボクの求め全てに応えること。拒否権はない。途中で降りるのも認めない……降りるなら、今のうちだ」
冗談でも脅しでもないことは声でわかった。
砂時計の主は、これから行われる内容を宣言しただけにすぎない。
「……わかりました」
全てを理解した上で、少女は答えた。
なるべく声が震えないよう意識する。それだけが、ささやかな意地だった。
怖くなんてないと、相手に向かって精一杯アピールする。
「眼鏡、外して」
「え……?」
「××は、かけていなかった」
少女の了承を得る前に、砂時計の主が眼鏡のつるに触れる。あっさりと外されて、少女の世界は曖昧になった。ぼやけた視界が、自分という人間の輪郭ごと溶かしていくようだった。
白い砂が静かな音と共に落ち始める。
それを合図に、砂時計の主の身体が少女に近づいた。
冷たい指が、頬に触れた。肩が跳ねる。
指は輪郭を確かめるように、ゆっくりと滑っていく。
怖い……気持ち悪い……。
あらゆる負の感情が、胃の底で固まっていく。
悲鳴も抗議も今は許されない。契約を破れば、対価は得られない。
少女は奥歯を噛んで、ただ耐えた。
「……久しぶり」
囁きが耳殻をくすぐる。
砂時計の主の声は、先ほどまでと別人のようだった。
柔らかくて、甘ったるくて、愛しい人に向けられるもののように。
「髪、伸びたね」
少女は返事をしなかった。求められていないことは明白だったからだ。
今、自分という存在はどこにもいない。
相手が指で確かめているのは××の輪郭で、囁いたのも××なのだ。
少女はただの――器だった。
時間の流れがやけに遅く感じられた。
数えるほどに一秒が長く伸びていく。意識を逸らそうとすると、その度に指の冷たさに引き戻される。
何か別のことを考えないと。
少女は必死に思考を巡らせた結果、最悪の想像にたどり着いた。
××も、砂時計の主と同じことをしていたのだろうか。
触れる指、甘ったるい吐息、交換される熱……その全て受け入れていたのだろうか。
考えた途端、何かがせり上がって気持ち悪さが増した。
目尻が熱くなり、涙がこぼれていく。
間違ってない。これは必要なことだ。
信じる正しさのために。汚された宝物を救うために。
そう言い聞かせ続ける。言葉を重ねるほどに、意味は段々と薄くなっていった。
瞼の裏の暗がりで、砂の音だけがさらさらと降り続けていた。
このときの少女は、まだ知らない。
この十分間を、これから幾度も繰り返すことになるのを。
砂時計の主が落とした囁きの、本当の意味を。
そして――。
落ちていく砂を、惜しいと思う時が来ることさえも。




