第四話 森を読むエルフ
エルピアの小屋を出て、最初に分かったことがある。
森は広い。
ものすごく広い。
そして、私には何も分からない。
小屋の周りにいた時も深い森だとは思っていたけれど、実際に歩き始めると、その印象はさらに強くなった。 見上げるほど背の高い木々が幾重にも連なり、太い根が地面を這い、枝葉は空を覆い隠している。 足元には湿った落ち葉が積もり、ところどころに見たことのない花や茸が顔を出していた。
王国の森にも入ったことはある。
でも、あれは森というより、人間が管理している木の多い場所だったのだと今なら分かる。 道があり、標識があり、測量杭があり、時々魔導灯の中継柱も立っている。 少なくとも、自分がどこにいるか完全に分からなくなることはなかった。
ここには、それがない。
道がない。 標識もない。 地図もない。
なのに、エルピアは迷わない。
私の少し前を、当然のように歩いていく。
「ねえ、エルピア」
「何?」
「本当に道、合ってる?」
「合ってる」
「どこで分かるの?」
「見れば分かる」
「出た。 森の民の雑な説明」
思わず呟くと、エルピアがこちらを振り返った。
「雑?」
「えっと、説明が短いという意味です」
「短いとだめ?」
「私には分からないので、できれば長めでお願いします」
エルピアは少し考えるように目を伏せた。
それから、近くの木の幹に手を触れる。
「この木、北側の苔が厚い」
「うん」
「でも、ここは沢が近いから、東側にも苔がある」
「うん?」
「だから、苔だけで見ると間違える」
「なるほど?」
分かったような顔で頷いてみたが、正直半分も分かっていなかった。
エルピアは次に、地面に落ちている小さな枝を拾う。
「これは、夜風で落ちた枝」
「枝にも昼と夜があるの?」
「ある」
「あるんだ……」
「夜風は谷から来る。 だから、谷はあっち」
エルピアは森の奥を指差した。
私には、全部同じ森に見えた。
「さらに、今朝は赤羽鳥が鳴いてた」
「あかはねどり」
「巣があるのは村の近く」
「え、鳥の声で村の近さが分かるの?」
「うん」
「それ、魔術?」
「普通」
「普通の基準が違いすぎる……」
私は思わず額に手を当てた。
王国なら、方角を調べるために方位盤を使う。 位置を調べるなら地図を見る。 遠くの街へ行くなら街道を辿る。 それが当たり前だった。
でもエルピアは違う。
木を見て、風を聞き、鳥の声を覚え、土の匂いで場所を知る。
魔導工学とはまるで違う。
けれど、これはこれで一つの技術なのだと思った。
いや、技術と言うと少し違うのかもしれない。
森の中で生きるために、自然と身体に染み込んだ知識。
エルフが長い時間をかけて積み重ねてきた、森の読み方。
「すごいね、エルピア」
「すごい?」
「うん。 私だったら、ここに一人で置いていかれた瞬間に終わる」
「終わる?」
「遭難して、泣いて、たぶん木の実を食べてお腹を壊す」
「赤い実は食べない方がいい」
「もうその時点で間違えてる!」
エルピアは少しだけ首を傾げた。
たぶん、冗談だと思っていない。
実際、昨日の私なら普通にやりかねないので強く否定できなかった。
◇
森の道中は、思っていた以上に大変だった。
まず、足場が悪い。
木の根が地面から盛り上がり、ぬかるんだ土に足を取られ、細い枝が外套に引っかかる。 学院の校庭や王都の舗装路とは何もかもが違う。
エルピアはその中を、すいすいと進んでいく。
私はその後ろで、三歩に一回くらい小さく悲鳴を上げていた。
「わっ」
足元の根に引っかかり、身体が前に傾く。
転ぶ、と思った瞬間、エルピアが私の腕を掴んだ。
「大丈夫?」
「大丈夫……ではないけど、助かりました」
「足元、しっかり見て」
「見てるんだけど、森の方が私を転ばせに来てる気がする」
「森はそんなことしない」
「じゃあ私の足が悪いんだね」
「たぶん」
「そこは少し否定して」
エルピアは真面目な顔で頷いた。
「わかった、少し否定する」
「そういう意味じゃなくて」
思わず笑ってしまう。
エルピアの言葉は短い。 表情もあまり変わらない。 けれど、一緒にいると少しずつ分かってくることがある。
彼女は冷たいわけではない。
ただ、感情の出し方が静かなのだ。
助ける時も、心配する時も、慰める時も、全部少しだけ分かりにくい。
でも確かに、こちらを見てくれている。
「ありがとう。 エルピアがいてくれてよかった」
「うん」
「こういう時、友達がいると心強いね」
何気なく言った言葉だった。
けれど、エルピアの足がそこで止まった。
「友達?」
「え?」
私も足を止める。
エルピアは不思議そうにこちらを見ていた。
その顔は、知らない単語を聞いたというより、知っているはずの単語の形を確かめているようだった。
「友達って、知らない?」
「言葉は知ってる」
「うん」
「でも、よく分からない」
「よく分からない?」
「村に、私と同じくらいの子はいないから」
「ああ……」
そういえば、エルフは長命で、子どもが少ない種族だと教科書にも書いてあった。 さらにエルピアは、村で大戦後に生まれた唯一の子だという。
それなら、同じ目線でふざけ合ったり、くだらない話をしたりする相手がいなかったとしても不思議ではない。
友達。
私にとっては、深く考えずに口にした言葉だった。
けれどエルピアにとっては、まだ輪郭のはっきりしないものなのかもしれなかった。
「じゃあ、今度ちゃんと説明する」
「今じゃないの?」
「歩きながら説明すると、私が転ぶので」
「もう転んでる」
「そこは忘れてほしい」
「分かった。 少し忘れる」
「全部忘れて」
「それは難しい」
エルピアはそう言って、また前を向いた。
その横顔はいつも通り静かだったけれど、ほんの少しだけ考え込んでいるようにも見えた。
◇
しばらく歩くと、森の空気が変わった。
はっきりと何かが見えたわけではない。 けれど、風の流れが少し冷たくなり、葉擦れの音が低く響くようになった気がした。
エルピアが立ち止まる。
「どうしたの?」
「静か」
「静か?」
私は周囲を見回した。
鳥の声は聞こえない。 さっきまで遠くで鳴いていた虫の音も止んでいる。
言われてみれば、妙に静かだった。
エルピアは腰の矢筒に手を伸ばす。
「何かいる」
「何かって」
「分からない。 でも、いる」
その言葉で、私の背筋が冷えた。
昨日の森狼が頭をよぎる。
私は慌てて杖を握った。 学院支給の短い杖。 頼もしいかと言われると、正直あまり頼もしくない。 なにせ使うのが私である。
「リーネ、後ろ」
「はい」
私は素直にエルピアの後ろへ回った。
こういう時、意地を張ってはいけない。 私はここまでで、身をもってそれを学んだ。
茂みが揺れる。
低い唸り声。
出てきたのは、昨日の森狼よりは一回り小さい魔獣だった。 灰色の毛並みをした狼に似ているが、額から短い角が生えている。 数は二匹。
「昨日のより小さい」
「……なんだ、だったららくしょ」
「でも速い」
「嫌な情報!」
魔獣が地面を蹴った。 確かに速い。
しかし、エルピアの動きは速かった。
弦を引く音がしたと思った次の瞬間、一本目の矢が放たれる。 矢は魔獣の足元をかすめ、地面に突き刺さった。
外した。
そう思った瞬間、地面から細い蔦が伸びた。
蔦は魔獣の前足に絡みつき、その勢いを殺す。
魔獣が体勢を崩したところへ、二本目の矢が飛ぶ。 今度は正確に肩を射抜いた。
もう一匹が横から回り込む。
私は咄嗟に杖を構えた。
「《フレイム》!」
火球が飛んだ。
予想通り、狙いは外れた。
けれど、魔獣の目の前の枯れ葉に火がつき、一瞬だけ炎が立ち上がる。
魔獣が怯んだ。
その隙にエルピアの矢が飛び、二匹目の足元を縫い止める。
魔獣たちは短く唸ると、こちらを警戒しながら森の奥へ逃げていった。
私はその場にへたり込む。
「こ、怖かった……」
「大丈夫?」
「大丈夫。 たぶん寿命は縮んだけど」
「縮むの?」
「気持ち的には」
「そう」
エルピアは頷くと、私が燃やした枯れ葉に近づいた。
そして足で土をかぶせ、完全に火を消す。
「火、危ない」
「あ、ごめん」
「森では、すぐ消す」
「うん。 気をつける」
私は素直に頭を下げた。
王国では火の魔術は基本中の基本だ。 学院でも最初に習う攻撃魔術の一つだった。
でもこの森では違う。
たった小さな火でも、森を傷つけるものになり得る。
私の常識は、ここでは危険になるのかもしれない。
「さっきの、エルピアの矢。 地面から蔦が出たよね」
「うん」
「それは魔術?」
「少し」
「少し?」
「矢に種を結んでる。 魔力を流すと伸びる」
「そんなことできるの?」
「できる」
「すごい……」
私は素直に感心した。
人間の魔術は、術式を組み、魔力を流し、現象を再現する。 魔導工学ではそれを器具に刻み込み、誰でも同じように使える形にする。
でもエルピアのそれは、少し違う気がした。
種。 蔦。 弓。 森。
全部がつながっている。
魔術というより、森の力を借りているように見えた。
「人間も、そういうの使う?」
「うーん。 人間はもっと、決まった術式を使うかな。 こう、線を引いて、記号を刻んで、誰が使っても同じように動くようにする」
「同じように」
「うん。 魔導灯とか、魔導列車とか。 私の国では、魔術は生活の道具にもなってるんだ」
「道具」
「便利だよ。 夜でも明るいし、遠くまで早く行けるし、地図もかなり正確だし」
「森は、明るすぎると眠れない」
「そこから違うんだ……」
私は苦笑した。
便利なものが良いものだと、私は自然に思っていた。
でもエルピアにとっては、明るすぎる光も、まっすぐすぎる道も、もしかすると森を乱すものなのかもしれない。
人間の当たり前。
エルフの当たり前。
その二つは、思っていたよりも遠い。
◇
再び歩き始めてから、エルピアは少しだけ口数が増えた。
食べられる木の実。
触るとかぶれる葉。
踏むと音が出やすい枝。
森狼が嫌う匂い。
私にはどれも初めて聞くことばかりだった。
そして、そのほとんどを私はすぐに忘れそうだった。
「この葉は触らない」
「触ると?」
「手が腫れる」
「覚えました」
「こっちは食べられる」
「似てない?」
「似てない」
「私にはほぼ同じに見える」
「全然違う」
「エルピア先生、難易度が高いです」
「先生?」
「教える人のこと」
「私は先生?」
「今は完全に先生」
「そう」
エルピアは少しだけ背筋を伸ばした。
気に入ったのかもしれない。
そう思った直後、私は足元のぬかるみに足を取られた。
「わっ」
また転びかける。
エルピアが今度も腕を掴んでくれた。
「リーネは、生きるのが下手」
「言い方!」
「森で」
「森で、を先につけてほしかった」
「リーネは、森で生きるのが下手」
「はい。 それなら大丈夫です」
「でも、話すのは上手」
不意に言われて、私は少しだけ黙った。
「……そうかな」
「うん」
「私、話すのが上手って言われたこと、あまりないよ」
「そうなの?」
「学院だと、余計なことを言うなとはよく言われた」
「余計なこと」
「今みたいなやつ」
「今みたいな」
「そう」
私は苦笑する。
学院では、私の言葉はだいたい注意される対象だった。 言い訳。 軽口。 余計な質問。 授業の本筋から外れた疑問。
でも、エルピアはそれを不思議そうに聞いてくれる。
そして時々、思いもよらないところで真面目に受け止める。
「エルピアは、私と話してて変じゃない?」
「変」
「即答」
「でも、嫌じゃない」
「……そっか」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
嫌じゃない。
たったそれだけの言葉なのに、今の私には十分すぎるくらいだった。
森の中を進むにつれて、少しずつ空気が変わっていった。
木々の間隔がわずかに広がり、足元の根が歩きやすいように避けているように見える。 いや、実際にそんなことがあるのかは分からない。 でも、森そのものが人の通る場所を覚えているようだった。
エルピアの歩く速度が少し落ちる。
表情は相変わらず静かだ。
けれど、さっきよりも肩に力が入っている気がした。
「エルピア?」
「もうすぐ」
「村?」
「うん」
その声は、いつもより少し硬かった。
私は何か言おうとして、やめた。
昨日からまだ一日しか経っていない。 エルピアのことを、私はほとんど知らない。
けれど、彼女が村へ向かうことに少し緊張しているのは分かった。
なら今は、余計なことを言わない方がいいのかもしれない。
やがて、木々の向こうに淡い光が見えた。
魔導灯の光ではない。
木漏れ日とも違う。
大きな枝に吊るされた透明な実のようなものが、柔らかく光を放っている。 その光に照らされるように、巨大な樹々の幹に沿って作られた家々が見えた。
木を切り倒して建てた家ではない。
木と共に生えているような家だった。
枝と枝を結ぶ細い橋。 葉に隠れた丸い窓。 根元に刻まれた複雑な文様。
それは、王都のどんな建物とも違っていた。
美しい。
私は思わず息を呑んだ。
「あれが、エルピアの村?」
「うん」
エルピアは小さく頷いた。
でも、その声はやはり硬い。
「リーネ」
「何?」
「私の後ろにいて」
その一言で、胸の高鳴りが少しだけ冷えた。
そうだった。
私は観光に来たわけではない。
ここはエルフの村。
人間がほとんど足を踏み入れたことのない場所。
そして私は、その人間なのだ。
エルピアが一歩前に出る。
私は借りた外套の裾を握りしめ、黙ってその後ろに続いた。




