第三話 才能の名前
人は誰しも、自分の中でもっとも優れた能力をもって、それを才能と呼ぶ。
私にとってそれは魔術だった。
少なくとも、昨日まではそう思っていた。
故郷の村で褒められた魔力量。 学院で通用しなかった実技。 退学寸前の成績。 どれもこれも、私という人間が魔術師として半端者であることを示しているように思えた。
けれど、もし。
もしも私の才能が、そもそも人間だけの世界では開花しようのないものだったとしたら。
平凡な暮らしでは知ることすらできなかった、誰かと誰かの言葉をつなぐための力だったとしたら。
私は、それを何と呼べばいいのだろう。
◇
「……本当にエルフなんだよね?」
「うん」
小屋の中で、私はエルピアと向かい合っていた。
エルピアは外套を脱いだまま、椅子代わりの切り株にちょこんと座っている。 銀色の髪は肩のあたりでさらりと揺れ、その間から長く尖った耳がはっきり見えていた。
見れば見るほど、教科書に載っていたエルフそのものだった。
ただし、教科書の挿絵よりもずっと表情が少ない。
そして、思ったより普通に木の実を食べる。
「本に載っていたエルフは、もっとこう……神秘的で、森の奥から人間を見下ろしてる感じだったんだけど」
「見下ろす?」
「あ、いや、悪い意味じゃなくて。 なんていうか、すごく高貴で近寄りがたい感じというか」
「私は近寄りがたい?」
「今は、ちょっと近寄りやすいです」
「そう」
エルピアは小さく頷いた。
嬉しいのかどうかは分からなかった。
「というか、エルピアは私が人間だって分かってたんだよね?」
「うん」
「いつから?」
「最初から」
「最初から!?」
思わず声が大きくなる。
エルピアは少しだけ耳を揺らした。
「耳が丸いから」
「判断基準そこなんだ……」
「あと、森の匂いがしなかった」
「森の匂い」
「うん。 あと、すぐ死にそうだった」
「それは否定できないけど、もう少し優しく言ってほしい」
昨日の魔獣を思い出す。
あの時エルピアが助けてくれなければ、私は間違いなくここにいないだろう
私は自分の耳に触れた。
丸い。 当たり前だけど丸い。
エルピアの耳は長く尖っている。 それだけで、私たちは別の種族なのだと分かる。
それなのに、言葉は通じている。
「ねえ、エルピア。 もう一回確認していい?」
「うん」
「エルピアは、人間の言葉を知らない」
「知らない」
「私は、森の言葉を知らない」
「でも話してる」
「いや、私は普通に喋ってるだけなんだけど」
「それが森の言葉に聞こえる」
「…………」
何度聞いても意味が分からない。
けれど、現実として会話はできている。
私はエルピアの言葉を理解できる。 エルピアも私の言葉を理解できる。
でも、森の文字は読めない。
つまり、私の力は文字には働かない。 あくまで声に出された言葉だけなのだろうか。
いや、まだ断言はできない。 ただ少なくとも、あの板に刻まれた文字は読めなかった。
「……もしかして私、通訳みたいなことをしてる?」
「つうやく?」
「違う言葉を話す人たちの間に入って、意味を伝える人のこと」
「リーネは、意味を伝えてるの?」
「たぶん。 自分でもよく分かってないけど」
私は頭を抱えた。
通訳。
言ってみてから、その言葉が妙にしっくり来た。
でも、そんな才能を持っていたとして、今まで何の役に立つというのだろう。 当然のことながら、人間の国で暮らしていれば、人間の言葉だけで十分だった。 学院にも外国語の授業はあったけれど、それは人間同士の国の違いにすぎない。
エルフの言葉。
森の言葉。
そんなものを使う機会なんて、普通に生きていたら一生なかったはずだ。
だから私は知らなかった。
自分の中に、こんな力が眠っていることを。
「リーネ」
「何?」
「難しい顔してる」
「人生が難しくなったからね」
「大変?」
「かなり」
「……そう」
エルピアは少し考えた後、棚から木の実を一つ取って私の前に置いた。
「食べる?」
「今、慰められてる?」
「たぶん」
「ありがとう。 いただきます」
差し出された木の実を口に入れる。
酸っぱかった。
顔がきゅっとなるくらい酸っぱい。
「すっぱ!」
「元気出る」
「出るというか、びっくりする」
「びっくりすると元気出る」
「その理屈は初めて聞いた」
エルピアは真面目な顔をしていた。
どうやら本気らしい。
私は少しだけ笑った。
状況は最悪に近い。 退学どころか、人間の国に帰れるかすら分からない。 でも、エルピアと話していると、不思議と完全には絶望しないで済んだ。
◇
落ち着いたところで、私は今一番大事な問題を口にした。
「それで、私って人間の国に帰れるのかな」
エルピアの表情が、ほんの少し曇った。
それだけで嫌な予感がする。
「分からない」
「分からないかぁ……」
「人間の国は遠いって聞いた」
「どれくらい?」
「分からない」
「方角は?」
「分からない」
「近くに人間が通る道は?」
「ない」
「地図は?」
「たぶん、ない」
「詰んでない?」
「つんでる?」
「かなり困ってるって意味」
「困ってるの?」
「うん、困ってる」
私は机に突っ伏した。
帰る方法が分からない。
方角も分からない。
地図もない。
ついでに、ここがどれくらい人間領から離れているのかも分からない。
学院の先生に怒られるどころではない。 先生は今ごろ、私が遺跡の中で行方不明になったことに気づいているだろうか。 いや、気づいていてほしい。 退学処分より捜索願を優先してほしい。
「村なら、知ってる人がいるかもしれない」
エルピアがぽつりと言った。
私は勢いよく顔を上げる。
「そうだ! 村!」
「うん」
「エルピアの村だよね?」
「そう」
「そこに行けば、人間の国について分かるかも?」
「分からない。 でも、私より知ってる人はいる……とおもう」
「行きたい!」
私は即答した。
選択肢がそれしかない。
ここで小屋にいても、森の知識がない私は何もできない。 エルピアに頼りっぱなしになるだけだ。 なら、少しでも情報がありそうな場所へ行くしかない。
けれど、エルピアはすぐには頷かなかった。
視線を落とし、外套の裾を指先で握る。
「……村は、少し遠い」
「歩ける距離?」
「歩ける」
「じゃあ大丈夫。 私も頑張って歩くから」
「森狼もいる」
「それは大丈夫じゃない」
「でも私がいる」
「頼もしすぎる」
私は思わず深く頷いた。
エルピアがいれば、大丈夫だろう。 たぶん。
ただ、それでもエルピアの表情は晴れなかった。
「エルピア、村に行きたくないの?」
そう聞くと、エルピアは少しだけ黙った。
さっきまでより長い沈黙だった。
窓の外で風が枝を揺らす音が聞こえる。
「嫌いじゃない」
「うん」
「でも、村にいると、少し落ち着かない」
「落ち着かない?」
「みんな、昔の話をするから」
「昔の話?」
「戦争の話。 人間の話。 森が焼けた時の話」
エルピアは外套の裾を指先で握った。
「私は、それを見てない」
「……そっか」
「だから、みんなと同じ気持ちになれない」
静かな声だった。
「みんなが人間の話をする時、怖い顔をする。 怒った顔をする。 でも私は、その理由を知らない」
その言葉に、私は何も言えなかった。
エルピアは村を嫌っているわけではない。 きっと村の人たちも、エルピアを嫌っているわけではない。
ただ、エルピアだけが共有できない記憶があるのだ。
村の誰もが抱えている、遠い昔の傷跡が。
「無理には言わないよ」
「でも、リーネは困ってる」
「困ってるけど、エルピアに嫌なことをさせたいわけじゃないし」
「嫌なこと」
「うん。 村に行くのが嫌なら、別の方法を一緒に考える」
私がそう言うと、エルピアは不思議そうに目を瞬かせた。
「一緒に?」
「うん。 助けてもらってるのは私だけど、だからってエルピアに全部押しつけるのは違うでしょ」
「……そう」
エルピアは小さく呟いた。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「変な人間」
「褒めてる?」
「分からない」
「そこは褒めててほしかった」
私は苦笑した。
エルピアはまた少し考える。
そして、ゆっくり頷いた。
「村に行く」
「いいの?」
「うん。 リーネ、帰りたいんだよね?」
「……ありがとう」
「でも」
「でも?」
「村では、あまり喋らない方がいい」
その言葉に、私は首を傾げた。
「どうして?」
「人間だから」
短い答えだった。
けれど、その一言には思ったより重さがあった。
私は人間。
エルピアはエルフ。
そして、人間と魔族は長い間断絶している。
教科書では知っていた。 でも、それはあくまで紙の上の知識だった。
今、私はその断絶の向こう側にいる。
エルピアが普通に話してくれるから、少し忘れかけていた。
ここで私は、明らかな異物なのだ。
「エルフの村って、人間を歓迎してくれない感じ?」
「分からない」
「分からない?」
「私が生まれてから、人間を見たことがない。 だから何とも言えない」
「じゃあ大丈夫な可能性も……」
そう言いかけて、私は途中で言葉を止めた。
「……でも、昔を知ってる人たちは違うか」
「うん」
エルピアは小さく頷く。
「戦争を覚えてる人がいる」
私は口を閉じた。
旧大戦。
人類と魔族の間で起きた長い戦争。
人間側では、それは歴史の授業で習う過去の出来事だった。 でもエルフは長命種だ。 もし教科書通りなら、百年前の戦争を実際に知っている者がいてもおかしくない。
人間にとっての歴史が、エルフにとっては記憶なのかもしれない。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ、気をつける」
「うん」
エルピアは頷いた。
その横顔は、どこか不安そうだった。
◇
出発の準備は、驚くほど簡単だった。
私の荷物はほとんどない。 学院の制服は少し汚れていたが、破れてはいなかった。 試験用の鞄には、簡易水筒と小型の魔導灯、それから学院支給の短い杖が入っている。
問題は、森の中で制服があまりにも目立つことだった。
「白い」
「制服だからね」
「目立つ」
「ですよね」
「獣に見つかる」
「それは嫌です」
エルピアは棚から別の外套を取り出した。
昨日から着ているものより少し短いが、同じように木の皮と草の繊維で編まれている。 色は暗い灰茶色で、森の影に紛れやすそうだった。
「これ、着る」
「いいの?」
「古いから」
「いや、古いとかじゃなくて。 借りても大丈夫?」
「うん」
「ありがとう」
私は外套を受け取り、制服の上から羽織った。
少しごわごわする。 王都の布とはまるで違う。 けれど、肩にかけると不思議と温かかった。
エルピアは私の姿をじっと見る。
「まだ目立つ」
「悲しい判定」
「でも、まし」
「ましなら良しとします」
私は外套の留め具を直しながら、小さく息を吐いた。
本当に行くのだ。
エルフの村へ。
人間がほとんど足を踏み入れたことのない場所へ。
怖くないと言えば嘘になる。 でも、このまま小屋にいても何も始まらない。
「リーネ」
「何?」
「村に着いたら、私の後ろにいて」
「うん」
「勝手に喋らない」
「うん」
「変なことしない」
「変なことって?」
「今みたいに、全部」
「全部!?」
思わず声が裏返った。
エルピアは真顔だった。
「私はそんなに変かな」
「変」
「即答しないでほしいなぁ」
「でも、悪くない」
その一言に、私は少しだけ言葉を失った。
エルピアは外套のフードを被り直し、長弓を背負う。 その動作はいつも通り静かで、迷いがない。
私は思わず笑った。
「じゃあ、悪くない変な人間として頑張ります」
「うん」
エルピアは小さく頷いた。
そして扉を開く。
外には深い森が広がっていた。
湿った土の匂い。 高く伸びた木々。 遠くで鳴く鳥の声。 私の知らない世界。
その中を、エルピアが一歩先に進む。
私は外套の裾を握りしめ、その後を追った。
退学寸前の落ちこぼれ魔術師。
けれど今の私は、ただの落ちこぼれではないのかもしれない。
人間の国では何の役にも立たなかった力。
平凡な暮らしの中では、きっと一生気づけなかった力。
誰かの言葉を、別の誰かへ届けるための力。
まだ名前も分からないその才能を抱えたまま、私はエルフの森を歩き出した。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
リーネとエルピアの物語はここから少しずつ動き出していきます。
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