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第二話 森の言葉

 目を覚ました時、最初に感じたのは木の匂いだった。

 湿った土と乾いた草、それから薬草のような少し甘い香り。 王都の寮の硬い寝台とも、故郷の家の藁布団とも違う、不思議な寝心地だった。

 ゆっくりと瞼を開くと、視界に入ったのは粗く削られた木の天井だった。 丸太を組んで作られた小屋らしい。 壁には乾燥させた草束が吊るされ、窓際には見たことのない木の実や薬草が並べられている。

 私はしばらく天井を見つめたまま、昨日の出来事を思い出そうとした。

 ノルディア地下遺構。 見慣れない転移術式。 真っ白な光。 知らない森。 牛ほどもある狼型の魔獣。

 そして、暗褐色の外套を被った少女。


「……夢じゃないよね」


 小さく呟いて、私は頬をつねった。

 痛い。

 残念ながら現実らしい。

 身体を起こそうとすると、全身に鈍い痛みが走った。 魔獣に直接噛まれたわけではないけれど、転移の衝撃と緊張で体力を使い切っていたようだ。 それでも目立った怪我はない。

 寝かされていたのは、木の台に毛皮を何枚か重ねた簡素な寝床だった。 毛皮は驚くほど柔らかく、ほんのりと温かい。 誰かが火の近くで乾かしてくれていたのだろう。

 私はゆっくりと部屋を見回した。

 小屋の中は狭い。 けれど散らかってはいなかった。 壁際には長弓と矢筒が立てかけられ、棚には木製の器や干した果物が整然と並んでいる。 王都の家具のような華やかさはないが、どれも丁寧に使い込まれていた。

 その時、小屋の扉が静かに開いた。


「起きた」


 入ってきたのは、昨日の少女だった。

 昨日と同じ暗褐色の外套を被っている。 顔は見えているが、頭の大部分は布で覆われていて、銀色の髪が頬の横に少しだけ落ちていた。

 少女は木で編まれた籠を抱えている。 中には見たことのない赤い実と、細長い葉の束が入っていた。


「あ、えっと……おはようございます」

「……おはよう」


 ほんの少し間のある返事だった。

 挨拶に慣れていないのか、それとも単に口数が少ないだけなのか。 どちらにしても、昨日命を助けてくれた相手であることに変わりはない。

 私は寝床の上で姿勢を正し、深く頭を下げた。


「昨日は助けてくれて、本当にありがとうございました。 あのままだったら、私、たぶん食べられてました」

「食べられてたと思う」

「そこは否定してほしかったですね……」


 思わず苦笑する。

 少女は不思議そうに首を傾げただけだった。 冗談が通じているのかいないのか、いまいち分からない。


「怪我は?」

「あ、たぶん大丈夫です。 身体は痛いですけど、噛まれたりはしてないので」

「そう」


 少女は短く頷くと、籠を棚の上に置いた。

 その動作は静かで無駄がない。 森で暮らしている人はみんなこうなのだろうか。 いや、そもそもここがどこなのかも分かっていないのだけど。

 私は改めて少女を見る。

 年齢は私と同じくらいに見える。 背は少し低く、表情は落ち着いている。 ただ、王都の同年代の子たちと比べると、どこか距離感が違った。

 近いようで遠い。 というより、人と話すことそのものに慣れていない感じがする。


「あの、まだ名前を聞いてなかったですよね。 私はリーネ=レインです」


 少女はぴたりと動きを止めた。

 ほんの数秒、沈黙が落ちる。


「……エルピア」

「エルピアさん?」

「エルピアでいい」

「じゃあ、私もリーネでいいよ。 よろしくね、エルピア」

「よろしく……?」


 エルピアは小さく繰り返した。

 その表情は、単語の意味を確かめるようなものだった。


「えっと、これから仲良くしましょう、みたいな挨拶かな」

「仲良く」

「そうそう」

「……分かった」


 本当に分かっているのかは怪しかった。

 けれどエルピアは真面目な顔で頷いたので、私はそれ以上深く聞かないことにした。

 それより、少し気になることがあった。

 エルピア。

 それだけ。

 家名を名乗らなかった。

 王都ではもちろん、私の故郷のような田舎村でも、正式に名乗る時は家名を添える。 もちろん、親しい相手なら名前だけで呼ぶこともあるけれど、初対面なら普通は違う。

 もしかすると、家名を持たないくらい山奥の集落なのかもしれない。

 私はそう考えて、妙に納得した。

 相当な田舎に飛ばされたのだろう。 少なくとも、王都近郊ではなさそうだ。


 ◇


 朝食として出されたのは、木の実を潰した白っぽいスープだった。

 最初は正直、少し身構えた。 見たことのない木の実に、見たことのない香草。 学院の食堂で出たら、まず間違いなく半数の生徒が警戒する見た目である。

 けれど一口飲んで、その印象はすぐに変わった。

 優しい味だった。 少し甘くて、少し苦くて、身体の奥から温まる。 転移と遭難で弱った身体には、むしろありがたいくらいだった。


「おいしい」


 思わずそう言うと、エルピアはきょとんとした顔をした。


「おいしい?」

「うん。 すごくおいしいです」

「……変じゃない?」

「変?」

「味」

「全然。 むしろ好きかも」


 そう答えると、エルピアは少しだけ目を伏せた。 安心したようにも見えた。


「いつもの味だから、嬉しい」

「いつもの味?」

「うん」

「……ああ、普段からこういうのを食べてるんだ」

「そう」


 エルピアは小さく頷き、自分の器に視線を落とした。

 不思議な反応だった。

 人に料理を褒められたことが少ないのだろうか。 それとも、この辺りでは他人と食事をする機会自体があまりないのだろうか。

 私はスープを飲みながら、ふと小屋の中を見回した。

 どう見ても、一人分の生活だった。

 器も少ない。 寝床も一つ。 誰かと暮らしている気配はない。

 エルピアは私と同じくらいの歳に見える。 そんな子が、森の奥で一人暮らし。

 いくら田舎とはいえ、さすがに気になる。


「エルピアって、一人でここに住んでるの?」

「うん」

「親は?」

「違うところにいる」

「ああ、なるほど。 家族と離れて暮らしてるんだ」

「うん」

「私は王都の学院に通うために寮暮らしなんだけど、エルピアもそんな感じ?」

「学院?」

「魔術を勉強する場所」

「知らない」


 即答だった。 学院もないのだろうか。


「じゃあ、何かの修行中?」

「修行?」

「弓とか昨日もすごかったし。 村の外れで暮らしながら、森で生きる訓練をしてるのかなって」


 エルピアは少し考えた後、首を横に振った。


「違う」

「違うんだ」

「ここが静かだから、ここにいる」

「……静かだから?」

「うん」


 それ以上、エルピアは説明しなかった。

 けれど、何となく踏み込んではいけない気がした。

 親と離れて、村からも離れて、森の奥で一人暮らし。

 修行でも下宿でもない。

 今の私には、それがどういうことなのか分からなかった。


 ◇


 食事を終えた後、私は外に出てみることにした。

 小屋の外は、深い森だった。

 まず目に入るのは木の高さである。 王国領内の森でも大きな木はあるが、ここの木々はそれよりさらに太く、古い。 枝葉が空を覆い、昼間だというのに森の中は薄暗かった。

 小屋はそんな森の中に、ぽつんと建っている。

 周囲には畑らしきものはなく、代わりに薬草を育てているらしい小さな区画があった。 近くには細い沢が流れ、木の枝には干した果物が吊るされている。

 生活の気配はある。

 でも、人里の気配ではない。


「危なくない?」

「何が?」

「何がって……魔獣とか」

「慣れてる」

「慣れてるで済むんだ……」


 昨日の魔獣を思い出して、私は遠い目をした。

 私なら一日で死ぬ自信がある。 なんなら死にかけたし。

 エルピアは外套の裾を直しながら、弓を手に取った。 暗褐色の外套は近くで見ると、普通の布とは少し違う。 木の皮や草の繊維を細かく編み、何かの染料で暗く染めているようだった。 王都の織物のような滑らかさはないが、森の影に紛れるにはとても向いている。

 昨日、森の中で姿が分かりにくかったのもこの外套のおかげだろう。


「その外套、自分で作ったの?」

「村の人が作った。 森で歩く時に使う」

「へぇ……。 すごい。 確かに目立たなそう」

「目立つと獣に見つかる」

「それは嫌だね」

「うん」


 会話は短い。

 けれど途切れるわけではない。

 エルピアは必要なことだけをぽつぽつ話す。 私はそれに質問を重ねる。 そんな感じだった。

 ただ、話せば話すほど、少しずつ違和感が増えていく。

 家名を名乗らない。

 下宿を知らない。

 学院も退学も知らない。

 それどころか、魔導灯や測量器の話をしても、エルピアは不思議そうな顔をするだけだった。

 飛ばされたここは相当な田舎。

 そう考えれば、一応は説明できる。

 できるけれど。


「近くに街道とかあるかな?」

「……かいどう?」

「人が通る道。 馬車とか商人とかが使う広い道」

「ない」

「なるほど……村はあるんだよね?」

「ある」

「そこに行けば、地図とかあるかな?」

「たぶん……ない」

「ないの? こんな森の中なのに?」

「村では、森は覚えるものだから」

「冗談でしょ……」

「ほんと」


 エルピアは当然のように頷いた。

 私は額に手を当てた。

 まずい。 かなりまずい。

 ここは私が知っている常識が通じない場所かもしれない。

 それでも、この時の私はまだ思っていた。

 少し変わった辺境なのだろう、と。

 王都から遠く離れた山奥の村なら、こういうこともあるのかもしれない、と。


 ◇


 小屋に戻ると、エルピアは棚から薄い板のようなものを取り出した。

 紙ではなく、木の皮を薄く加工したものらしい。 その表面には、細かい傷のようなものがいくつも刻まれている。

 私は思わず目を瞬かせた。

 板。

 まさかの板である。

 王都どころか、私の故郷の村でさえ紙は使っていた。 もちろん高級紙ではなかったけれど、帳簿や手紙くらいなら普通にあった。

 それなのに、ここでは木の皮に文字を刻んでいるらしい。


「……どんだけ田舎なの……」


 つい小声で呟いてしまった。


「田舎?」

「あ、いや、なんでもないです」


 私は慌てて首を振る。

 命の恩人に向かって失礼すぎる。

 でも、正直に言えばかなり驚いた。 相当な山奥に飛ばされたのだろうとは思っていたけれど、まさか記録媒体が板とは。

 エルピアは気にした様子もなく、その板を机の上に置いた。


「これ、昨日の薬」

「薬?」

「熱が出ないように使った」

「あ、そうなんだ。 ありがとう。 じゃあ、それは薬の作り方?」

「うん」

「へぇ……」


 私は板に刻まれた文字を覗き込んだ。

 そして、すぐに眉をひそめる。

 そこには、私が見たことのない記号が並んでいた。

 丸みを帯びた線。 枝のように伸びる線。 小さな点をいくつも重ねた印。

 文字のようにも見えるし、何かの絵のようにも見える。

 少なくとも、王国文字ではない。 地方文字でもない。 学院で見た魔術式の記号とも違う。

 私は魔術式の解読が得意だ。 術式の構造を読み、どの部分が何の役割を持つのかを考えるのは好きだった。

 でも、これは読めない。

 意味がまったく分からない。


「……なにこれ」


 思わず声が漏れた。

 エルピアが不思議そうにこちらを見る。


「読めないの?」

「読めないよ。 これ、何の文字?」

「森の文字」

「森の文字……?」

「うん」


 エルピアは少しだけ首を傾げた。


「……不思議。 私たちの言葉が分かるのに?」

「……私たちの言葉?」

「うん」

「えっと、それって……この辺りの地方語ってこと?」

「ちほうご?」

「いや、なんでもない。 じゃなくて、私が分かってるって何?」

「リーネ、昨日から私たちの言葉で話してる」

「…………え?」


 私はゆっくりと瞬きをした。

 何を言われているのか、すぐには理解できなかった。


「いや、私は普通に喋ってるだけだけど」

「でも、分かる」

「それはエルピアが私の言葉を分かってるからでしょ?」

「違う。 私は人間の言葉、知らない」

「……人間の言葉?」


 思わず聞き返す。


「それって、どういう――」


 そこでエルピアが、ふと合点がいったような顔をした。


「気づいてるかと思った」

「え?」


 エルピアはそう言うと、おもむろに頭から被っていた外套に手をかけた。

 するりと暗褐色の布が肩へ落ちる。

 銀色の髪が、光を受けてさらりと流れた。

 そして、その髪の間から現れたのは、人間にはない特徴だった。

 長く、尖った耳。

 見間違えようがなかった。


「……エルフ?」


 かすれた声が漏れる。

 エルピアは小さく頷いた。


「うん」


「…………」


 数秒、私は完全に停止した。

 銀髪。 長耳。 整った顔立ち。 静かな雰囲気。

 教科書に載っていたエルフの特徴そのものだった。

 ただ、教科書の絵よりずっと生きている。

 当たり前だけど。


「エルフぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!?」


 遅れて、森に私の絶叫が響いた。

 エルピアがびくりと肩を震わせる。


「そんなに驚く?」

「驚くよ!? エルフだよ!? 本に載ってたやつだよ!?」

「本にいたなら知ってるでしょ」

「知ってるのと目の前にいるのは全然違うの!」


 私は思わずエルピアの耳を指差した。


「本物!?」

「本物」

「本当にエルフ!?」

「本当に」

「うわぁ……」


 まじまじと見てしまう。

 エルピアは少し困ったように視線を逸らした。


「そんなに、見る?」

「あ、ごめん。 つい」

「つい」

「本当にごめん」


 慌てて目を逸らす。

 そこでようやく、私は自分の置かれている状況を理解し始めた。

 ここは王国領ではない。

 人間の国はずっと遠い。

 そして目の前にいる少女は、エルフ。

 つまり。


「じゃあ、ここって……」


 私は窓の外に広がる深い森を見た。

 エルピアは静かに頷く。


「エルフの森」


 さらりと言われた。

 あまりにも簡単に。


「…………」


 私は天井を仰いだ。

 退学どころの話ではなかった。

 どうやら私は、人間がほとんど足を踏み入れたことのない場所へ飛ばされてしまったらしい。

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